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戦争と性−進駐軍慰安婦より

699中田 </b><font color=#800000>(riQdTYdc)</font><b>:2004/06/13(日) 06:07
中国山西省盂県に住んでいた李秀梅さんの証言です。日本軍に拉致されたのは1942年のこと。当時15歳でした。周辺の村からも多くの少女が同じように連行され「慰安婦」にされていたのです。



私が満十五歳旧暦八月のことで、夕方でした。私は家で母と二人オンドルの上で靴づくりをしていました。父と兄は外出していました。

四人の日本兵が入ってきました。その日の朝、日本軍が村に来るというので、私は家から逃げていました。ひとまず安心して夕方家に帰ったところ、日本人が戻ってきたのか、家にやってきたのです。四人の日本兵は日本兵の服の色として知っていた黄色がかった服を着て、鉄兜を首から下げ銃剣をもっていたので、直ぐに日本兵とわかりました。

彼らは笑いながら何か言いましたが、言葉がわからないので何を言っているのかわかりませんでした。彼らの言葉の中に「花姑娘」(かわいい子)という中国語が混じっており、それだけがわかりました。

日本兵はオンドルの所に来て私をひっぱりました。私を引っ張り返そうとした母は顔を殴られました。母も纏足をしており、足は私よりもっと小さいのです。たちまち倒れてしまいました。私も母も泣きました。すると私はハンカチのようなものをつめこまれました。私は外まで引っぱられました。

私はロバにまたがらされて連れていかれました。母が私を呼ぶ声が聞こえていました。日本兵二人がロバの右側に、二人が左側につき、逃げ出せないようにして連れて行かれました。手は両手をあわせて、手首をひもで縛られました。足の方は縛られはしませんでした。口にはハンカチのようなものを詰め込まれたままで、声をあげて泣くこともできませんでした。

(中略)

進圭村に連れて行かれた日、ヤオドンから砲台に連れていかれました。砲台の中の部屋に入れられました。きれいな部屋でベッドもありました。強姦されるということは噂できいていたので分かっていました。

砲台の部屋には日本兵がいました。背は低く、丸顔、色白、目鼻だちは整った感じの人だったと思います。日本兵は私の顔にキスしたり、私の体を触ったりしました。日本兵は何か言っていましたが言葉はわかりません。中国語でいわれた「クーニャン」だけわかりました。

日本兵は身振りで私に服を脱ぐように要求し、私は恐ろしさのあまり抵抗できず自分で脱ぎました。日本兵も服を脱ぎました。日本兵の要求に従い私は横になり、強姦されました。陰部に痛みがありました。性行為の経験がなかったのですから痛かったです。この時のことは本当に忘れようにも忘れることはできません。

その日はそのまま砲台で夜を過ごしました。寝床で命があっただけでもましだと考えました。

それから強姦を繰り返される毎日が始まりました。砲台に連れていかれて強姦されることもあれば、ヤオドンに日本兵が来て強姦されることもありました。砲台は夜でヤオドンでは昼も夜も強姦があったように思います。日本兵が進圭村にいる時は殆ど毎日です。一日何人くらいに強姦されたかということは、今となっては分かりませんが、一人が出ていったかと思うとまたすぐ次の者が来るということはよくありました。日本兵が戦闘で進圭村にいない時だけ休めました。

生理のように出血している時も容赦なく強姦はありました。しかし、日本軍に連れていかれてから初潮を見たものなのか、強姦で傷つき出血したものなのかは実のところわかりません。若く、それまで性的経験もなかったので本当に陰部が痛みました。




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