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戦争と性−進駐軍慰安婦より

648中田 </b><font color=#800000>(riQdTYdc)</font><b>:2004/06/06(日) 17:09
貸座敷等に娼婦を紹介斡旋するのは、げぜんと呼ばれていました。そ
の概略と規則の発展が以下で説明されています。昭和元年の完成され
た規則を転載したいのですが、私の参考にしました本には、記載され
ていませんので明治三八年のを転載します。従いまして、昭和時代を
規定したものとは違う事をお断りしておきます。

軍の鑑札を持って慰安婦を徴集した事が明らかになっていますが、
そうしますと法律に則った「げぜん」ではありませんので、この規則
からも逸脱した行為であったことになります。

山本俊一著『日本公娼史』中央法規出版株式会社刊行
規則の要旨・現代語訳も同書を参照しています。

 芸娼妓口入業者を一般に「げぜん」と呼んでいたが、当事者達は
「周旋業者」と自称し、正式には芸娼妓酌婦紹介営業とも呼ばれた。

広義の職業周旋業者は「桂庵」と呼び大正一五年現在で東京府下に約
六○○軒あったが、そのうち「げぜん」は二四二軒であった。「桂庵」
仲間では「げぜん」を大物師と呼んでいたが、それは女一人を紹介周
旋すると、手数料は前借金の一五パーセント(昭和二年から八パーセ
ントに減ぜられた)という多額であったからである。

これに対して「げぜん」でない「桂庵」は仲間同志では小物師と呼ぶ。
その理由は女中一人の世話料は規定により二円六○銭しか受け取れな
いためであった。

 明治五年になって、「請宿取締規則」が公布されたが、「げぜん」
に関する規定はなく、明治三八年には「芸娼妓口入営業取締規則」が
発布されたが、これには酌婦は含まれておらず、やっと大正六年「芸
娼妓酌婦周旋業者取締規則」で初めて「げぜん」は自由営業者ではな
く届出を必要とするに至った。

しかしそれはごく大綱の取締りにしかすぎず、昭和元年一二月二八日
になって初めて規則として完全な「げぜん」および一般周旋業者の取
締規則が発せられ、昭和二年一月一日より施行されることとなった。

 「げぜん」の紹介手数料は、本来が自由職業であったため、別に規
則で前借の何割などとは定めず、「オサカナ代」と称し、「女一人を
紹介したお魚をいただきます。」という意味で、不定の金額を楼主の
任意による包み金として受け取っていたが、おのずから不文律があっ
て、多くは楼主から前借金の一○パーセント、その他に女の方から五
パーセントもらい、収入合計は一五パーセントであった。

この習慣は大正年代を通して行われていたが、昭和元年一二月二八日
警視庁令により改正され、昭和二年一月一日から、前借金五○○円以
下一○パーセント、一○○○円以下九パーセント、二○○○円以下八
パーセント、二○○○円以上六パーセントと規定され、平均八パーセ
ントとなった。

「げぜん」は私娼の周旋は表向きはしないことになっていた。それは
万一発覚すれば営業停止を命ぜられる危険があるためであった。




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