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「愛国心」について

36ぼーん:2003/07/05(土) 13:45
>>35
> 「自分の先祖を仰ぎ見るような感覚」「自分の先祖に誇りを持てる」

司馬遼太郎などの伝える志士像をひとまず鵜呑みにする限りにおいての話ですが。

坂本竜馬があれほどの思想を示しえたのは、自分の郷里に対する正常な批判精神です。
彼は郷里を愛しつつも、決して「愛国」者ではなかったですね。
土佐を愛しつつも、土佐藩を愛してはいませんでした。
300年超におよぶ階級社会という「伝統」への批判と反発です。
土佐出身の多くの志士を動かしたのもそれだと読めます。
他方、陸奥陽之助なんかには、愛郷心があるのかどうか、定かではないですね。
「竜馬がゆく」に出てくる彼の姿は、もっと大きなものへの帰属感にあると思います。
薩摩や長州は少々事情が変わってはいますが、
結果的に幕藩体制の崩壊をもたらす方向へ動いた人たちは、
決して単純な「愛国」者ではなかったと思います。

ここでたとえるならば、当時における幕藩体制とは、現在の主権国家システムとパラレルだと見ることができます。
「地球市民」「世界市民」と言えば、「そんなものどこにいるんだ」と笑い飛ばすのが昨今のナショナリストの間に流行
している態度ですが、われわれの先祖がしてきたことは、まさにそういうことだったのです。
当時、「日本人」なんて概念はなかった。司馬遼太郎はそう述べていますね。なかったかどうかは知らないが、少なくとも、
一般的ではなかったわけです。現実に、人々は幕藩体制を前提とした思考しかできなかったわけです。

国旗・国歌に関連して言うならば、郷里への素朴な愛着と、そこに存在する政治体制への忠誠心はまったく別のものです。
それを意図的に混同し、ごっちゃにし、素朴な愛郷心を国家のために動員していくのがナショナリズムです。
そのような混同と混乱を生じせしめる回路を、教育システムの中に組み込んではなりません。
愛郷心は、その人が郷里の地域社会の中で守られつつ刺激されつつはぐくまれれば、自然に育ったり育たなかったりする
でしょう。それはその人に任せればよい。何か象徴しなければ(たとえば教育現場で国旗・国歌を前にみんなで何かする、
なんて行為)育たないものではないのです。

むしろ、そのように育っていくものに、ある固定化した方向性を与えようとするのが、愛郷心と愛国心の混同であり、
国旗・国歌法であり、学校教育現場での国旗・国歌強制だといえるでしょう。その必要などない、というのが僕の見解です。

さらに言えば、必要などない上に、害悪はあります。私たちは、自分の祖先を思い浮かべるときに、自分とは違う祖先を
思い浮かべている他者に思いをはせなければ、現在顕在化している多くの問題に取り組むことができない、ということです。
たとえば、沖縄や在日朝鮮人に関する(マジョリティ日本人の)問題。
マジョリティ日本人がうれしがって国旗掲揚、国歌斉唱をやっている中で、それを見て別の物を想起している人が忘れさら
れている、という批判は根強くあるものです。こうした人たちの「愛国」心を、わざわざ破壊しているのが国旗・国歌の強制
です。

そうしたことから、国旗・国歌の法制化は、とりわけその教育現場での強制は、なすべきではない。なかった。と思います。
今からでもかえるべきです。


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