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反・反戦派の方々へ
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社会的現実―倫理―生存本能という現実
があります。
私たちは、これらすべてが論理的に整合した体系にしなければならない。
一番安易な道は、現実と生存本能をそのままにし、倫理を変更することでしょう。
しかしこの場合、既に示したように「αの否定」にしかならない。
つまり、倫理の否定に他なりません。
反戦平和主義者が言うのは、しばしば生存本能という現実を変更させようとします。
これは無茶だ。と少なくとも一部の人に言われるのはわかります。
# ついでに言えば、生存本能の否定は、生きる権利の部分的な否定につながり、
倫理そのものを掘り崩す場合もあります。
というわけで、これもダメ。
だから、私たちが取りえるのは、倫理と生存本能という現実を維持しながら、
社会的現実を変えていくことだけなんですね。
じゃ、社会的現実をかえるとはいかにしてか。
社会的現実を変えるといっても、私たちは無力です。
しかし、そんなことは最初から分かっているわけです。
何せ民主主義社会ですから。
1人1人が1人だけで有力なら、それは民主主義社会ではありません。
だから、「こうすれば社会が変わる」ような方法を提出せよ、というのは、
民主社会においては考える意味がありません。
私たちは、一人だけでは世界を決定できない。
かつ、すべての人が世界を決定しているのです。
あくまでも、「その人が、その人の行動のみにおいて、どちら側に決定しているか」だけが問題。
だから、社会的現実を変更するにあたり、私たちの責任は、無力かどうかとは関係ないところで決まります。
すべての人が同調するならば実際に世の中が変わるように行動せよ。
これが民主社会における私たちの行動原理でなければならないわけです。
逆に、すべての人がそれに同調することによって不正が生き延びるような行動をしているなら。
その人は、その行動の倫理的責任を負うべきです。
私たちは、世界を変えることはできません。
単に、世界をある可能性に開くことしかできないのです。
だから、私たち一人一人は、どのような可能性に向かって世界を開くかにおいて責任を果たさねばなりません。
だから、微々たる物でしかないと知りつつ寄付を行ったりデモに行ったりするわけです。
で、その上で、そのような世界で、JDSみらい氏は、柏葉氏は、壱学生氏は、イカフライ氏は、
武蔵氏は、うろちい氏は、どうするんですか?
という問いかけをすることが大事なんです。
端的に、壱学生氏などは、自分が口にしさえしなければ、その責任を負う必要が無い、などと嘯いてます。
しかしはっきりいっておきます。この世の中に生まれ、民主的な枠組みの中でなしうることができる立場にいるならば、
(これは単に選挙権の有無だけを言うのではない。言語能力をもって世の中に働きかける能力があれば、
それをするかしないか、というレベルでも責任は問われる)
世界の現実という文脈に対して責任がある。とみなす。というのが僕の立場です。
# かりに責任がないとみなすならば、それは、端的に言って民主主義というものを実効的に否定しているのです。
ぼーんの勝手な立場と言いたいならば、自分が民主主義を否定する人間だと公言した上で言うべし。
まぁ、いろいろまとめると、こんな感じですよ。とりあえず。
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