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中国の反日教育
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これは1月8日付「タイムス」の記事です。
・・私は、日本軍が進撃し、通りや家のなかに繰り出し、進
路を横切る全ての生きているものを追跡し殺害するのをみて、その原因を懸命
に捜した。私は実際に発砲されるのを全て目にしたが、日本兵以外からのもの
は何もなかったと疑いもなく誓って言える。多くの清国人が隠れ場所から狩り
出され、射ち倒され、切り刻まれるのを目にした。ひとりとして戦おうとはし
ていなかった。皆、平服を着ていたが、それは無意味であった。何故なら、死
にたくない清国兵は、彼ら流に制服を脱いでしまっていたからだ。多くの者が
跪き、叩頭の格好で頭を大地に曲げ哀願していた。そのような姿勢のまま、彼
らは征服軍に無慈悲にも虐殺されたのであった。逃げた者は跡を追われ、遅か
れ早かれ殺された。私の目にした限りでは、家屋からは一発の発砲もなかった。
私はモニュメント(1666年に起きたロンドン大火の記念円塔)の天辺からロン
ドン・ブリッジをみるように、小さな市街のあらゆる場所がみて取れた。私は
自分の目を信じることができなかった。何故なら、私の通信が示しているよう
に、私を温和な日本人に対する称賛の気持で一杯にしてくれたということは、
それまでの日本軍の行動に議論の余地がないという証拠であった。そこで私は、
これには何らかの理由があるはずだと確信して、必死になってほんのわずかの
しるしをも注意深く見ていた。しかし、何も見出せなかった。仮りに私の目が
自分を欺いていたのであれば、他の人々も同じ状態にあったことであろう。英
国と米国の公使館付き陸軍武官もボウルダー・ヒルにいて、同様に驚き、かつ
戦慄していた。彼らが断言したように、それは蛮行のむやみな噴出であり、偽
りのやさしさの胸を悪くさせるような放棄であったのだ。
背後での射撃は、私たちの注意をひろい潟へとつながる北の入江へ向けさせ
た。そこでは、攻囲された市街に遅くまで留まり過ぎたパニック状態の逃亡者、
つまり男や女や子どもたちを通常の二倍も乗せたボートの群れが、西へと移動
していた。
士官に率いられた日本軍の騎兵部隊が入江の上手にいて海の方向に発砲し、そ
の射程内の者全てを殺戮した。年老いた男と十歳か十二歳くらいの二人の子ど
もが入江を渡り始めていた。騎兵が水のなかへ乗り込み、刀で彼らを何十回と
なく滅多切りにした。その光景は、死すべき存在としての人間が耐え得る以上
のものであった。
私たちが市街の方へ向き直ると、手に何も持たず、私たちと家々の間の、海
の方向に流れる、丘の裾にある小川の干上がった川床に沿って農夫の身形をし
た男が走っていくのがみえた。二十ないし三十発の銃弾が男の跡を追っていっ
た。一度、男は倒れたが、すぐさままた起き上がり、命からがら逃げ出した。
日本兵は十分に狙いを定めるには興奮し過ぎていた。男は見えなくなった。だ
が、最終的に男が倒れたのは、九分九厘確実であった。
別の哀れで不運な男は、侵略者が無差別に発砲しながら正面の扉から入って
くると、家の裏に飛び出した。路地に入った一瞬ののち、男は自分が二つの銃
火の間に追い詰められているのに気付いた。私たちは、男が三回土埃りのなか
に頭を垂れてから十五分間にわたりその悲鳴が聞こえた。三回目には、男はも
う立ち上がらなかった。大いに吹聴されていた日本人の慈悲に縋(すが)る形
で二つ折れになり、男は横向きに倒れていた。日本兵は男から十歩離れた所に
立って、狂喜して男に銃を向け弾丸を注いだ。
さらに多くのこれら哀れな死を、私たちは殺人者の手を止め得ないまま、目
にした。もっともっと多く、人が話せる以上に多く、言葉をもって語れること
の及ぶところではないほどに、気分が悪くなり悲しくなるまで目にしたのだ。
(中略)私たちが目にしてきたようなことをすることのできる人々のなかに留
まらねばならないのは、ほとんど拷問に近かった。
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