[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
3.11以降の世界と現代文明のゆくえ
32
:
藤原肇
:2012/08/02(木) 13:02:56
大学生になった年は60年アンポに重なり、クラス委員から全学委員に選ばれたが、当時は民青とかマル学とかの派閥抗争が酷く、パーティは部分だと軽蔑していた私は、党派性の抗争にはまったく関与することはなく、戦犯の岸内閣を倒すことに専念した。同時に日本中の大学の地質を専攻している学生を対象に、全国組織を作るためのオルグ活動をして、いろんな大学を訪れて調査と工作をしたことで、大学の実態と実力についての知識を得た。優秀な学生は花形の学科に競って行くために、どこへも行けない学生が集まるし、意欲的な学生が資源分野に関心を示さないのは昔から変わりない。だから、就職口や月給が他に較べて悪いために、人気のある学科に優秀な学生が集まるせいもあり、特に旧帝大系の地質や鉱山学科の質が悪かったが、東大では教授より助手が実力を持っていた。
五年後に国際地質学会がニューデリーで開かれると知り、チベット経由でヒマラヤを越えてインドに入って、川口慧海の逆のコースで行こうと考えたが、若気の至りの無謀な挑戦を思いついたものといえる。そこで予備調査と準備を中国で行うために、北京の地質学院に留学しようと考えて、調べてみたらレベルが余りにも低いので、その思いつきを放棄したことがあるが、北京行きが実現していたら温家宝は後輩のはずだ。二年の時に専門誌の『地質学雑誌』を創刊号から読み、何が現在の最先端領域かを知ったお陰で、大学よりも世界一の先生に師事することの方が、人生の近道になると思い当たったのだった。そこで世界一の先生に学ぶ目的の実現のために、ソ連政府の給費留学生の試験輪受けたのだが、高校で英語の単位を取っていなかったことと並び、成績が良くなかったことが原因になった。今から思うと「塞翁が馬」の幸運であり、山がなく飯がまずく共産主義に固まった、ソ連で青春時代を送らずに済んだだけでなく、その逆のグルノーブルに行けたことは、何と幸せだったかと思わずにいられない。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板