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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

107藤原肇:2008/01/04(金) 10:20:00
ローマ教会に対しての生涯をとうしたタレイランの反抗精神に対して、「のごころ」を真情にして生きた私は若い頃から関心を持ち、彼が死ぬ間際に果たして教会と和解したり妥協したかは重大な関心事だった。だから、彼が死の直前の五月十七日にサインした二通の手紙の内容について、留学生時代に図書館で調べたことがあった。
「前言撤回書」はクーパーが書いているように、「若い頃のことが教会を悲しませたことを残念に思う」という文面だけであり、彼が教会に対して犯罪を犯したとは触れていないのでサインしたので、タレイランは自己の立場を押し通したのでサインした。それもクーパーが書いたように完全な署名でサインした。
二通目の法王にあてた手紙は「青春時代に不向きな職業に就いた」とは書いてあるが、それが間違っていたとは言っておらず、そこに彼の抵抗と自己主張があったと私は思うが、彼はローマに対して謝罪はしていないと思う。ローマ法王よりもボルテールに敬愛の念を持って旧体制に反発した彼は、死ぬまで自分はフランスとヨーロッパのために人生を生きたと確信し、いかにも外交の達人として受け入れられた文書だったので、自分の死を見守る人たちを安心させるために、くつろいだ気分で署名したのたと思う。
だから、ダフ・クーパーの伝記にも記載されていた、三つの重大な過失である、『僧侶の市民憲法を承認したこと』、『勝手に司祭を叙任したこと』、『彼自身の結婚の問題』はローマ側の問題点ではあったが、それに関しては触れることなくタレイランは満足げに署名して死んだのだと考える。
幕末のときの唯一の体制側の自決者は川路聖謨だというが、タレイランがもし日本人なら署名した後で、果たして切腹したかどうかは興味深いテーマだが、国際政治を見る目は彼の方がナポレオンより優れていて、ナポレオンは島流しという刑に服したけれど、タレイランは国王ルイ・フィリップの見舞いまで受けてベッドの上で安眠したのである。


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