ごめん。1831年の間違い。許して。この日の日記の書き出しはこうだ。
Goethe zeigte mir heute den bisher noch fehlenden Anfang des funften Aktes von >Faust<.
今日ゲーテは私に、今まで無かった(未完成だった)第五幕を見せてくれた。
(中略)
Der Faust, wie er im funften Akt erscheint, sagte Goethe ferner, soll nach meiner Intention gerade hundert Jahre alt sein, und ich bin nicht gewiss, ob es nicht etwa gut ware, dieses irgendwo ausdrucklich zu bemerken.
“第五幕に登場するファウストはね”ゲーテは続けて言った。“私の意図では、丁度100歳であるべきなんだよ。でもね、このことをどこかにはっきりと明記すべきかどうかについて、迷っているだ。”
何の反応もないな。続けて つついて みよう。
#53のはじめに続けて。Ich las bis zu der Stelle, wo die Hutte von Philemon und Baucis verbrannt ist, und Faust in der Nacht,
auf dem Balkon seines Palastes stehend, den Rauch riecht, den ein leiser Wind ihm zuwehet.
私(エッカーマン)は、ほのかな風が運んだPhilemon と Baucis の小屋の焼け落ちた硝煙の臭いを、屋敷のバルコニーに立って嗅ぐファウストがあった、という箇所まで読み進んだ。
(下手な訳ですみません。正式な日本語訳で読んでください)。
少し前に他のスレッドで述べさせて頂きましたように、『Japan's Zombie Politics』の副題『A Tragedy in Four Parts』は、今から15年ほど前の藤原さんの著書『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)で診断された日本の病理現象を構成する4種類の要素のことを示していると考えておりますが、『Japan's Zombie Politics』の副題から再考察を行いましたところ、正式な副題は『A Tragedy in Four Parts』であり、「魔方陣」や「魔女の九九」などの議論が行われていた頃の「Tragedy of …」では無かったことに気が付きました。
その「Tragedy of …」で思い起こされるのは、『Tragedy of X』や『Tragedy of Y』等にはじまる、米国の有名な推理作家「エラリー・クィーン」の悲劇四部作(一部のみタイトルが「Tragedy of …」ではない)がございますが、これらの作品群が出版された時は「エラリー・クィーン」ではなく「バーナビー・ロス」という別名で発表されており、ここに「表と裏」、「実と虚」、の関係性が垣間見られると考えます。
また、これら四部作は1932〜1933年に出版されていることから、いみじくもワイマール共和制の末期と一致しており、悲劇という意味で不思議な因縁を感じさせます。
私は、現代の悲劇性に対して暗黙知のレベルの考察に至ったなどという大層な事ではなく、単に『A Tragedy in Four Parts』という副題から『存在していない第二部』について思いを巡らせた結果、先述の解釈へと至ったに過ぎません。
『JZP』をファウストに見立てて、これが第一部であるとするならば、いずれ第二部への言及が為されるものと考え、それに対して藤原さんのこと、予め何か仕組んでいることは間違いないのではと思い、副題にその秘密が封じ込まれているならば、それは何かという考察をさせて頂いた次第です。
ところで、ゲーテが「ファウスト」を仕上げるにあたっては、同じドイツ古典主義の代表者であり、また彼の盟友であったシラーの影響も大きいと言われておりますが、このシラーの詩(歓喜の歌=Ode an die Freude)に多大なる影響を受けたのが、ベートーヴェンの交響曲第九番の第四章(合唱)であり、ファウストの第二部に影響を受けたのがマーラーの交響曲第八番(通称:千人の交響曲=Symphonie der Tausend)ということになりますが、この交響曲がウィーン最後の時代を飾った名曲であったが如く、JZPの第二部にも大きな期待を抱いております。
そして、この第二部が出てくるまで、皆様と共に、これまでの博士の書籍群をベースにして、現代社会の抱える悲劇という暗闇から、新しい時代創りに向けた救いの光芒を見出せるよう、より多くの方々との共創によって、個々人の活動が、それぞれの地域や社会から、国家を超えて世界レベルへと普遍的な展開が為されていくよう、盛り上げていきたいと思います。
Japan’s Zombie Politicsが出版になってから二年が過ぎたが、アマゾンに仲介した業者がプレミアムをつけて定価の二倍にしたので、多くの人に迷惑をかけたことを心苦しく思っている次第である。そんな高い値段だのにアマゾンで買ってくれた人が、数少ないが書評を書いてくれるので参考にしている。
最近・・・The book reads like a Tolstoy novel with so the introduction of many characters that cause much confusion to an English-reading audience due to the multitude of unfamiliar Japanese names・・・という書評の書き込みがあったのを読み、自分で考えたことのない日本的な状況について思い当たり、日本という国の持つ名前の特殊性に気がついた。
たとえば藤原の家計の筋に当たる苗字として、伊藤Ito、江藤Eto、加藤Kato、工藤Kudo、後藤Goto、佐藤Sato、須藤Sudo、名藤Nato、武藤Muto、などがあって、外国人ならば判別に苦しむだろうと痛感している。そういえばJapan’s Zombie Politicsには人名がたくさん登場するから、それだけで混乱するのは当然だと思う。
私も若い頃にロシアの小説を読んだときに、ニコライ・アレクサンドロビッチ・ベルーソフというような名前が覚えられず、誰が誰かさっぱり分からなくなって読むのを放棄したことがある。それでもトルストイは貴族の肩書きがついていたので混乱は少なかったが、ドフトエフスキーの登場人物は農民や商人が多かったのでお手上げだった。
Japan’s Zombie Politicsがトルストイの作品の印象を与えたのなら、未だ読みやすさの点で救いがあったと考えて、慰めの気分になっていいのだろうか。