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第48回衆議院議員総選挙(任期満了2018年)スレ

5601チバQ:2018/06/27(水) 21:09:21
https://www.sankei.com/politics/news/180621/plt1806210005-n1.html
2018.6.21 04:59
【平成30年史 政界再編(4)】
「密室」は破壊され「劇場」へ 小渕氏後継「森さんでいい」
 平成12年4月2日朝-。東京・麹町の参議院宿舎で、自民党参院議員会長、村上正邦の部屋の内線電話が鳴った。電話の主は小渕恵三政権の官房長官、青木幹雄だった。

 同じ宿舎内から慌ただしくやってきた青木は顔色を変えており、パジャマ姿の村上に言った。

 「大変なことが起きた。小渕が倒れた」

 すぐさま自民党政調会長の亀井静香、党幹事長代理の野中広務と連絡を取り合い、対応を協議することになった。

 同日午後1時すぎに国会近くの旧赤坂プリンスホテルのスイートルームに顔をそろえたのは村上、青木、亀井、野中に、党幹事長の森喜朗。のちに「5人組」と指弾されるメンバーだった。青木の報告を受け、野中が言った。

 「公表のタイミングが大事ですよ」

 村上は即座に事務方に「記者会見まで入院の事実は伏せるように」と命じた。5人の念頭にあったのは元幹事長、加藤紘一の存在だった。加藤はその前年の9月の総裁選で小渕に戦いを挑んだだけに、不穏な動きをさせないように「情報統制」を敷いたのだった。

 その後、入院した小渕の容体が厳しいと分かると、村上が口火を切った。

 「次は森さん、あなたしかいないんじゃないか」

 指名された森は野党時代の総裁、河野洋平を推した。重ねて村上が「森さんでいい」と繰り返すと、森は神妙な表情で「私で良ければ、お役に立たせてもらいます」と応じた。小渕後継が森に決まったのはこのときだった。

 小渕が倒れた原因は脳梗塞だった。持病も持っていたが、自由党党首、小沢一郎らと会談し、自由党との連立解消を決断した直後に体調を崩したことから、心労がたたったとみられている。

 このころ小沢は自民、自由両党を再結集させるべきだと小渕に主張し、この意見に村上は共感していた。一方で、小沢と同じ自民党経世会出身の野中や青木は、小沢ら自由党と組む以前から公明党と水面下で手を握り、「小沢斬り」もやむなしと進言していた。小渕は党内で板挟みになっていた。

 4月1日の自民、自由、公明の3党首会談は物別れに終わり、小渕の「小沢さんと2人だけで」という希望で、約20分間別室で行われたサシの協議も決裂した。席を外した公明党代表の神崎武法は「どんなやりとりだったか、翌朝にでも小渕さんにたずねようと思っていた」と悔やむが、その詳細は今も不明だ。

 ただ、村上は「当時私が事前に連絡を取った限りでは、小渕さんは必ずしも自自合流に後ろ向きではなかった。だから小沢にも好感触だと伝えていた」と明かす。

 連立解消の報を聞き自由党本部に駆けつけた村上は、激怒する小沢に「話が違うじゃないか」と怒鳴りつけられたという。村上は今「経世会が分裂したしこりが残っていたんだろうな。だから野中、青木は合流に否定的だったんだよ」と振り返る。
 小渕後継を森と定めた5人組は「密室政治」の象徴として批判され、森内閣は発足直後からつまづいた。だが、それまで自民党では次のトップが水面下で決まるのは珍しいことではなかった。

 古くは昭和49年の党副総裁、椎名悦三郎による「椎名裁定」。田中角栄の首相退陣表明を受け、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘らを前に三木武夫の名を挙げた。

 7人の首相に官房副長官として仕えた石原信雄も、退陣表明後の竹下登から「きみは引き続き宇野(宗佑)君を手伝うようにと言われた」と証言する。宇野は約2カ月で首相を辞め、次の海部俊樹政権の流れを作ったのも竹下の意向だった。


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