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石炭・亜炭・炭砿スレ

188とはずがたり:2020/06/18(木) 23:01:07
浦幌と尺別は結構離れてるhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1439271704/3128のに浦幌から尺別迄索道で運んで積み出したんだ。。

調べてみると
>尺浦通洞が完成し専用鉄道で送炭
と云う記述もあって,尺別鉱山から浦幌炭砿迄鉄道が延びてた時期もあった!?

尺別信号場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E5%88%A5%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E5%A0%B4

北日本鉱業が、尺別炭礦運炭軌道向け分岐線(車扱貨物積込線)設置予定地点に、1919年(大正8年)7月13日付で信号所設置を願い出たことにより貨物駅として開設され[1]、その後旅客を扱うようになった。なお雄別炭鉱尺別線は1961年(昭和36年)の一般開放後も、貨物は当駅で接続していたが、旅客は約400 m 離れた社尺別駅が接続駅であった。その後尺別炭鉱は1970年(昭和45年)に閉山となり、2019年(平成31年)3月16日に旅客取り扱いを廃止し[2]、信号場となった[3]。旅客営業末期の駅番号はK44。

周辺

北海道道361号尺別尺別停車場線
旧尺別鉄道と並行。内陸に8キロほど入ったあたりに数千人が暮らした大きな市街地があったが閉山により消滅。わずかに街路の跡と崩れた屋根が残るのみ。

浦幌駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B9%8C%E9%A7%85

1918年(大正7年):大和鉱業浦幌炭砿ケナシ坑(常室川流域)より当駅へ馬車鉄道約17km敷設[4][5]。
1922年(大正11年):浦幌炭砿休止に伴い馬車鉄道廃止[4][5][注釈 1]。
1933年(昭和8年):釧路側約4km地点(常豊信号場手前に相当)から分岐する浦幌炭砿までの専用線敷設工事開始[4]。
1936年(昭和11年)頃:炭砿専用線敷設工事中止[4][注釈 2]。
1938年(昭和13年):浦幌炭砿から尺別炭砿側の選炭場へ山越え索道設置、運炭開始[5]。当駅の利用が無くなる[注釈 3]

歩鉄の達人さんの尺別鉄道レポ
https://www.hotetu.net/haisen/Hokkaido/090716syakubetutetudou.html

浦幌町産炭史
http://www.santankushiro.com/town/history_urahoro.html

昭和8(1933)年の再開と同時に、炭山へ入る専用鉄道の工事がスタート。しかし、昭和10(1935)年の開通予定が豪雨などの影響で実現に至らないまま昭和11(1936)年、三菱鉱業(株)に買収され、浦幌炭鉱は雄別炭礦鉄道(株)の尺別鉱業所の管下に入りました。出炭後の送炭方法が問題となりましたが、尺別まで索道をつくり、炭車で送ることになり、出炭量は急増していったのです。

昭和17(1942)年尺浦通洞が完成し専用鉄道で送炭したので出炭量も伸びることを期待していた矢先、太平洋戦争末期の坑夫の強制配転により休山を余儀なくされます。

昭和23(1948)年、出炭を再開し、22万トン出炭の状態まで回復していきました。これに拍車をかけるように昭和25(1950)年・26(1951)年と朝鮮戦争景気で出炭量は増加の一途をたどったのです。

朝鮮戦争後の反動不況が続き、各ヤマでは大量の貯炭に苦しんでいた昭和28(1953)年、人員整理で希望退職者が308人となった。翌29(1954)年10月、尺別鉱業所は浦幌炭鉱を閉山しました。


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