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石炭・亜炭・炭砿スレ
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:
とはずがたり
:2018/08/24(金) 13:47:49
「なぜ、社殿の奥に」高校生が大発見? 三池炭鉱の祠 閉山21年、風化進む遺産
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180824-00010000-nishinp-soci
8/24(金) 10:04配信 西日本新聞
福岡県大牟田市と周辺の旧三池炭鉱の各坑口そばにはかつて、坑内員の守り神である「山の神社(かみしゃ)」が鎮座していた。その一つである祠(ほこら)を昨年12月に取り壊された社殿の裏山で見つけたと、地元の男子高校生から特命取材班に連絡があった。同市の石炭産業科学館の職員が「大発見では」と驚いたという。調べてみると、同市の宮原(みやのはら)坑が「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された一方、他の炭鉱遺産の風化が進む現状があった。
「大発見」したのは福岡第一高2年、時津孝隆さん(17)=同市宮原町。早速、宮原坑そばの時津さんの自宅に近い「山の神社」を一緒に訪ねた。
高さ3メートルはある立派な鳥居をくぐった先に、社殿の基礎部分が残っていた。その裏山を10メートルほど登ると、うっそうとした雑木林の中に祠が立っていた。石造りで高さは2メートルほどもある。炭鉱や考古学に興味があるという時津さんは「なぜ社殿の奥に祠があるのだろう」と疑問に感じたという。
実は市史に記録があった。祠は1898年操業の宮原坑より3年前の95年に出炭が始まった勝立(かつだち)坑の「山の神社」で、愛媛県の大山祇(おおやまづみ)神社を総本社として、坑内員の寄付により三池炭鉱で最初に建立された。
祠には「明治38(1905)年7月9日建立」と刻銘されており、市史の記述と一致する。昭和初期に新たに社殿が建てられた際、背後の祠は隠れてしまった。その社殿が取り壊され、時津さんが最近になって訪れた際に見つけたようだ。
「実物を見たことはなかった」
新発見ではないと分かり、時津さんはやや残念そうだが、石炭産業科学館はなぜ「大発見」と伝えたのだろう。
坂井義哉館長(54)に尋ねると、祠の存在は資料では知っていたが「実物を見たことはなかった」と明かした。無理もない。勝立坑の閉山は太平洋戦争前の1928年。住宅地から外れた小高い山の上に鎮座し、近年は人が訪れることもほとんどなかったという。
同館のジュニアボランティアガイドも務める時津さんに先を越され、頭をかく坂井館長だが「実はほかにも、失敗が…」と切り出した。「当時の生活にまつわる炭鉱遺産は、保存できていないものも少なくないんです」
一番に挙げたのが、坑内員たちが身を寄せ合った木造の炭鉱住宅。炭鉱電車は残っているが、石炭を積む貨車も現存しない。三池炭鉱閉山から21年。「文化財といえるほどの時間は経過していない。ただ、山の神社のような当時の生活に関わる遺産が、私たちも気付かないうちに現物も記憶も風化しているのではと思うと、残念でなりません」
「山の神社は貴重な文化遺産と思う」
勝立地区の公民館も訪ねた。平成の初めまで炭鉱住宅が残っていた地区だが、今では炭鉱があった当時の生活を知る人は、どんどん少なくなっているという。
遺物の保全整備には費用がかかり、価値をどこまで見いだして残すかは難しい判断だろう。ただ、世界遺産の宮原坑からわずか2キロに位置し、地域の三社参りの一つとなった勝立坑の「山の神社」でさえ、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
時津さんによると、三池炭鉱の山の神社は10カ所ほどで確認できるが、きちんと管理されているところは少ないという。時津さんは「山の神社は貴重な文化遺産と思う。炭鉱の全体像を後世に伝えるため、祠をきちんと残してほしい」と話している。【あなたの特命取材班】
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