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公安警察の「事業仕分け」を!

91名無しさん:2010/08/30(月) 09:08:03
中川成夫は東京警視庁管内で弾圧された者にとって悪名高かった。
彼の名を知らない者は殆どいないといってよいほどだという。
それは拷問の場にいて指揮を直接とっていたためである。
なお、部下の巡査長の須田は「アッパッパ」と呼ばれていた婦人用ワンピースを常にかばんに入れて持ち歩き、拷問では服を脱ぎ、それを着こんで、返り血を浴びてもよいように備えていた。
1933年2月22日、築地署に小林多喜二が連行されたことはすぐさま留置場内に伝わり、次に中川や須田が来たときもサッと伝わったという。
実際、その日、署内に中川や須田がいたことは、政治犯や思想犯たちに目撃されている。
 小林多喜二が署内で絶命すると、警察は「心臓麻痺」と新聞発表し、遺体を自宅に返した。
急を知って大勢の友人、知人が駆けつけてきたが、遺体のあまりにも凄まじく無残な姿に、解剖で死因を究明しようと、東京大学はじめいくつかの医大へ掛け合った。
しかし、どの医大にも特高が手を回しており、断られた。最後に、内科医安田徳太郎医学博士(「山宣」こと山本宣治のいとこ)が死体の外況を検分した。
 両こめかみに大きな打撲傷を中心に数箇所の傷跡があり、皮下出血していた。
首に細引きで絞められた痕が残り、手首にも細引きで縛り上げられた痕があった。
下腹部から膝にかけて、前も後ろも一面墨と紅がらをまぜて塗りつぶしたように覆われていた。
大腿部は二倍ほどにふくれ、太い釘か畳針で突いた穴が十数か所あり、肉が露出しているところもあった。
陰茎も睾丸も赤黒い内出血で異常にはれあがっていた。
右手の人差し指は反対に折り曲げられて完全骨折し、指先が手の甲にとどく程であった。
 このような遺体の状況については、安田が説明し、そこに居合わせた友人たちが記録した。
そして、戦後になり江口渙や手塚英孝らによって公表された
(松尾洋『治安維持法と特高警察』教育社歴史新書、1979年、pp.153-156参照。他に、橋爪健『多喜二虐殺』を引用した山田風太郎『人間臨終図巻』Ⅰも)


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