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第46回衆議院議員総選挙(2013年?)

8402チバQ:2012/12/24(月) 12:22:51
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/feature/maebashi1355844777299_02/news/20121219-OYT8T00083.htm?from=popin
2012衆院選 検証
【中】民主自壊 大敗の道

県連長期対立 自民票の半分以下


敗戦の弁を述べ、妻(左)とともに支持者らの前で頭を下げる柿沼氏(16日、太田市内の事務所で) 「ダブル以上の(差の)敗北。笑って負けましょう。こんな大差じゃ」

 衆院選投開票日の16日夜。落選した3区の民主党県連会長・柿沼正明氏は、自嘲気味に支援者と握手を交わしたが、目には悔しさで光るものがあった。

 2009年の前回衆院選では、「自民王国」と言われた県内でも小選挙区で3勝するなど、民主党の県関係国会議員は2人から7人に増え、自民党(5人)を一気に上回った。だが今回は一転、1998年の結党後、初めて県関係国会議員がゼロになった。

■機能不全

 今回の敗因を、「迷走を続けた民主党政権への大変な批判の結果」(落選した1区・宮崎岳志氏)と、全国レベルでの党への逆風に求める向きは多い。だが、小選挙区の民主の得票がすべて自民の半分以下という群馬の惨敗ぶりには、「県連が組織として体をなしていなかった」(後藤克己・同党県連幹事長)との指摘も出ている。

 そもそも同党県連は、2006年に政治資金収支報告書の記載漏れなどの不正経理問題で「石関貴史氏や中島政希氏と他のメンバーとの対立が深まり、機能不全の状態が続いた」(角倉邦良県議)経緯がある。


 09年衆院選では、全国的な追い風に乗って勝利を収めたものの、風がやんだ翌10年の参院選では、富岡由紀夫・県連会長(当時)が自民候補に惨敗。その後、意見対立が再び表面化し、会長が空席の事態が今年4月まで1年半以上続いた。

 追い打ちをかけたのが、八ッ場ダムの建設問題や消費税法改正案の採決を巡る混乱だった。県連所属の国会議員はくしの歯が欠けるように減り、解散時には最盛期の半分以下の3人となっていた。

 今年10月には、離党者が相次いだことや体調不良を理由に、桑原功氏が県連会長を辞職。7年ぶりに県連大会を開き、衆院選に向けた新体制をスタートさせた約2か月後には選挙に突入を余儀なくされた。

 柿沼氏の選対本部長を務めた黒沢孝行県議は16日夜、記者団に「県連として『民主党何やっているの』と見られていた」と振り返り、県連組織の自壊を大敗の要因に挙げた。

■2区の擁立公示6日前

 空白区の候補選定も、急場しのぎで行われた。

 党本部は、選挙協力する予定だった国民の生活が第一(当時)の三宅雪子氏の千葉4区への国替えが解散日に決まったことを受け、引退した自民の福田康夫元首相の長男・達夫氏に対抗する「脱世襲」の象徴として、群馬4区への擁立を強く求めた。

 だが人選は進まず、しびれを切らした党本部が4区への落下傘候補を用意している旨を伝えたという。県連は、三宅氏など過去の落下傘候補が離党したり、国替えしたりして地元に根付かなかったことへの「アレルギー」から固辞。三宅氏の秘書だった青木和也氏に白羽の矢を立てたが、もはや準備不足は誰の目にも明らかだった。

 また県連は、9月に民主を離党し、日本維新の会に移った2区の石関氏の対抗馬を擁立するのに躍起で、「かかしでも立てる」(角田義一県連顧問)と執念を見せた。だが、こちらも人選は難航。衆院解散後に引退の意向を示していた桑原氏を担ぎ出したのは公示のわずか6日前だった。

 来夏の参院選に向け、県連の立て直しは急務だ。全国的な逆風の中でも、地元に根を生やした活動で、小選挙区や比例復活で生き残った県連もあるだけに、群馬県連内では「群馬もそういう組織を学ぶ必要がある。逆風でも民主に入った票はある」(選対関係者)との声が出ている。後藤幹事長は、分裂含みだった県連運営を振り返りながら、「労組系と距離を置いていた石関氏らの離党で、連合との距離は近くなった」と、県連再生に向けた結束にわずかな希望を見いだした。


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