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第46回衆議院議員総選挙(2013年?)

8370チバQ:2012/12/24(月) 12:00:45
http://www.asahi.com/area/oita/articles/MTW20121220450420001.html
2012年12月20日
社民出遅れ 自に緩み/検証衆院選2区
村山富市元首相(右)と握手する吉川元氏=8日、臼杵市
 8日、臼杵市野津町の公民館で開かれた社民新顔・吉川元(46)の演説会。ぐるりと見回した社民県連合の幹部は思った。「あの人がおらん。あの人も来とらんなあ」


 野津町は、脳梗塞(のう・こう・そく)で出馬を断念した前職重野安正(71)の地元だ。幹部は、重野を応援し、よく集会にも来ていた古参支持者の姿がぽつぽつといないことが気になっていたのだ。「社民ではなく重野さんだから応援していた、という人もいたかもしれない」


 衆院解散後に出馬表明した吉川は香川県出身で、知名度はほぼゼロ。県連合が選挙区内を連れ回し、村山富市元首相の応援も受けて選挙に臨んだが、4万6786票にとどまった。前回2009年に重野が取った11万2090票からは大幅に減った。


 党がかろうじて取った比例区九州ブロックの1議席に惜敗率で引っ掛かったが、「重野」から「吉川」への代替わりが成功したとはとても言えない結果だった。


     ■


 波乱の幕開けは10月中旬、重野が脳梗塞で入院したことに始まる。経過が順調な重野を見て「衆院解散が年明けになれば選挙に出られる」(選対幹部)と希望を持ったというが、その期待が逆に準備を遅らせることになった。


 公には「単なる肺炎」とひた隠しにしてきたが、突然の解散で県連合の算段は狂った。11月18日にようやく本当の病名を公表し、擁立断念を決めたが、後継探しは難航。元大分県議の吉田忠智参院議員の擁立は党本部に反対された。県連合の内田淳一代表らが上京して掛け合ったが、かなわなかった。「守りに入っていては党勢の拡大は期待できない。本部の姿勢に失望した」。幹部は嘆息した。


 やむなく重野の秘書の吉川を立て、21日に出馬会見を開いたが、吉川が出馬に応じたのは前日の夜遅くとバタバタだった。連合大分から独自推薦をもらい、党と県平和運動センターを中心に組織戦で臨んだが、自民前職の衛藤征士郎(71)にダブルスコアの差をつけられ、地盤のない維新新顔の竹内紀彦(43)に1万5千票差まで迫られた。


 「時間がなく、票読みや弱点へのてこ入れができなかった」と県連合幹部は悔やむ。完全な出遅れだった。


 前回、民主の推薦を得た重野に向かった民主支持層も、分散した。重野の病状をひそかにつかんでいた民主県連は候補擁立を狙ったが、両党の党本部の調整で断念。与野党に分かれているため、吉川の推薦も支援もしなかった。朝日新聞の出口調査では、吉川に投票した民主支持層は全体の39%にとどまり、28%が衛藤、21%が竹内に入れた。


 社民の弱体化は2区だけではない。ある県連合幹部は選挙から一夜明けた17日、選挙結果を報じる朝刊を見ながら自虐的につぶやいた。「解党した方がいいんじゃねえか」


 前回09年に社民が県内で得た比例区の票数は8万7131だったが、今回は5万760と落ち込んだ。00年の15万1669から約10年で3分の1に減った。「労組も民主に離れていき、党員も高齢になった」。別の幹部は党勢の衰えを認める。「(吉川の当選は)うれしさ半分、危機感半分やな」。社民の衆院議員は吉川を含めて2人だけ。国政への影響力低下は必至だ。


     ■


 自民の衛藤は前回の雪辱を果たしたものの、得票は10万を切った。自民逆風の前回から1万2千以上も減らし、吉川の復活当選を許した。


 報道機関による情勢調査で優勢が報じられ、公示後に選挙区を離れて応援演説にも出かけた。自民県連の幹部は「緩みがあった。『自分が入れなくても勝てる』と思って投票に行かなかった支持者も多かったのではないか」。


 「どうせ自民が通る」。有権者からは冷めた声も聞かれた。投票率は63・64%(前回74・52%)で、現在の選挙区割りになって、初めて60%台に落ち込んだ。(敬称略)


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