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【捲土重来選挙】2009年次期衆院選スレ その2

5574チバQ:2009/09/13(日) 00:03:15
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/election/2008syuin/rensai4/20090814/20090814_0002.shtml
【ドキュメント 自民党 福岡発】高齢化、細る遺族会 「会長やけん落とせん」
2009年08月14日 13:28
 夕空にニイニイゼミの鳴き声が響き、足元に敷きつめられた玉砂利から昼の余熱が立ち昇る。

 お盆の入りの13日午後7時すぎ、福岡県みやま市の山川中学校で開かれた市遺族会山川支部の戦没者慰霊祭。自民党前職、古賀誠氏(69)が校庭の片隅にある忠霊塔に一礼した後、あいさつに立った。「残念なことに戦後生まれの方々が75−80%になってしまい、愚かな戦争がどんどん風化しようとしている。わが国の平和を永遠に語り継ぎ、戦争を繰り返さない国を残すことが大事です」

 約30人の参列者は、ほとんどが70−80代。用意されたパイプいすは空席も目につく。古賀氏は続けた。「国民一人一人が心を一つにして古里を守り、平和の尊さを次の世代にしっかりと語り継いでいきたい」

 式典終了後、古賀氏が手押し車のおばあさんに声をかけた。「元気にしとるね」。彼女が「80歳を超えました」と答えると、傍らの息子が続けた。「まだ選挙には行けます。大丈夫です」

 みやま市出身の古賀氏は2002年、戦争遺児として初めて日本遺族会の会長に就任した。

 会場を回る古賀氏と握手を交わした70代後半の男性は、人の輪を離れると自らを鼓舞するように力を込めた。「私らの会長やけん、絶対に落とせん」。さらに、こうつぶやいた。

 「それにしても(慰霊祭に参加する)人が少のうなったなあ」

   ■   ■

 古賀氏が4歳のときに父がフィリピン・レイテ島で戦死。母がリヤカーで行商をして子どもたちを育てた。かつて、政治家を志した動機を聞かれ「生活苦を訴える手紙を政治家に送る母を見て、『政治とは生活だ』と実感した」と答えている。

 自民党に強い逆風が吹くなか、古賀氏はかつてない頻度で地元に帰り、ミニ集会を重ねている。そして、戦争遺児の悲哀を語りながら、選挙区内のインフラ整備を「古里への恩返し」と言い切り、情と利に訴えかける。

 ●大平首相「君は何もないね」 「貧と苦」糧に中枢へ

 古賀氏が国会議員秘書を経て初めて国政に挑んだのは、30年前の1979年。4中選挙区に分かれていた福岡県で、そろって初出馬したのが麻生太郎首相(68)と太田誠一元農相(63)だった。

 3人一緒に首相官邸へあいさつに行ったとき、大平正芳首相(当時)は古賀氏の経歴書を見ながら言った。「君は何もないね。何もないじゃないか」

 麻生氏は吉田茂元首相の孫で地方財閥の御曹司。太田氏は経済学者で福岡県知事の娘婿。身構える古賀氏に大平首相は続けた。

 「でも君は、一番の財産を持ったじゃないか。貧と苦だよ。政治家にはこれが必要なんだ。おやじを戦争で亡くし、貧乏で育った体験を国政にどう生かすかだ」

 大平首相の助言通り、古賀氏は「貧と苦」を語り、豊かさを実感できる国造りを掲げた。地元遺族会の全面支援を得て9期連続で当選。運輸大臣、党国対委員長、幹事長、派閥の領袖と国政の中枢へ駆け上がった。元秘書は「古賀さんには運の強さとすばしっこさがある。学閥も地盤も看板もなく、そうでなきゃ生き残れなかった」と振り返る。

 加藤紘一元幹事長(70)が当時の森喜朗首相降ろしに動いた2000年の「加藤の乱」では、“兄貴分”と慕っていた加藤氏と土壇場で袂(たもと)を分かった。4年前、郵政民営化関連法案の衆院採決の際は、法案反対の動きを見せていたが、採決直前に退席して「棄権」。離党勧告処分を免れた。

 ひとすじにつらぬく‐。長く古賀氏を支援し、今回は民主党新人の野田国義氏(51)を推す60代の男性は、古賀氏のキャッチコピーを皮肉り「権力の中枢を目指す姿勢だけは貫いてきた。今回も選挙直前に選対委員長を辞めた」と手厳しい。


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