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【捲土重来選挙】2009年次期衆院選スレ その2

5458チバQ:2009/09/05(土) 23:35:31
>羽田皓市長は、洋一氏の出陣式や個人演説会でたびたび、「中核市の礎を築いてくれたのは喜一先生。洋一先生は喜一先生の思いを引き継ぎ、福山を更に飛躍させてくれる唯一の人」と評価。
鞆の浦の件といい、どうにかしろよ、亀井系でだれかいないのか?
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news/20090831-OYT8T01438.htm
王国激震 宮沢家三代の光と影 洋一氏衆院選落選 
福山の発展に尽力80年 自民への逆風実績訴え実らず

今回の衆院選では約80年続いた宮沢王国に激震が走った(8月13日、福山市金江町で) 歴史的な政権交代を引き起こした今回の衆院選。全国各地で強力な地盤を誇る自民の有力者が落選する中、広島7区(福山市)でも、自民の宮沢洋一氏(59)が敗退。祖父の裕(ゆたか)・元衆院議員(1884〜1963)、伯父の喜一元首相(1919〜2007)、洋一氏と三代、約80年続いた代議士の牙城「宮沢王国」に激震が走った。福山市の発展にも深くかかわった王国の<光と影>を、選挙戦の舞台裏も交えて2回に分けて紹介する。

 公示を5日後に控えた8月13日朝。洋一氏は本籍地の福山市金江町を家族と訪れた。ブドウ畑のそばにある裕氏の生家を過ぎ、裏山の裕氏が眠る墓に向かった。

 お盆の墓参りは久しぶりだった。墓前で静かに手を合わせ、深々と頭を下げた洋一氏は、「長い歴史に育まれ、自分がここに生きていることを実感した」と語り、集まった親族らを前に「選挙の重みを感じる。何とか勝ちたい」と決意をみなぎらせた。

 裕氏は、農家に生まれ、苦学して東京帝大に進んだ。内務大臣秘書官などを経て1928年(昭和3年)、立憲政友会の公認を得て旧広島3区(現7区を含む)で初当選。その後、政治家の道は長男の喜一元首相、次男の弘氏(元法相、県知事)に受け継がれた。弘氏の長男である洋一氏は喜一元首相の地盤から2000年に初当選した。

 今の福山市を語る上で、宮沢王国の影響は無視出来ない。特に喜一元首相は、日本鋼管(現・JFEスチール西日本製鉄所)の誘致に始まり、JR福山駅の高架化、同市緑町の「サンピア福山」誘致など都市基盤整備に力を入れた。喜一元首相が参院議員に初当選した1953年(昭和28年)の福山市の人口は約7万人だったが、合併も経て爆発的に増加し、今や47万人の中核市に発展した。

 こうした姿勢は洋一氏も受け継ぎ、JR福山駅前広場整備や鞆町の港湾埋め立て・架橋事業、福山港国際コンテナターミナル整備など、重要な懸案では福山と国とのパイプ役を務めてきた。

 羽田皓市長は、洋一氏の出陣式や個人演説会でたびたび、「中核市の礎を築いてくれたのは喜一先生。洋一先生は喜一先生の思いを引き継ぎ、福山を更に飛躍させてくれる唯一の人」と評価。ある保守系市議も「福山から宮沢さんがいなくなったらどうなるのか。何も出来んようになる」と洋一氏の実績を強調してきた。

 自民への逆風にさらされた今回の選挙戦。「自民は負けても、福山から宮沢の灯を消すな」と力説する陣営幹部もいた。選挙戦で洋一氏は、喜一元首相に触れることはほとんどなかったが、29日夜、金江町で行われた最後の個人演説会では「思い出すのは喜一のこと。喜一も厳しい選挙はあったが、すべて勝ち抜けてきた。力を与えてほしい」と呼びかけた。

 だが、その願いもむなしく、王国の歴史は翌30日の投開票で大きなショックに見舞われることになる。

(2009年9月1日 読売新聞)


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