[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
小沢一郎の政権構想
823
:
名無しさん
:2012/08/18(土) 02:28:51
小沢一郎と西郷隆盛…ロマンを求めた先に
「新党を作るのはいいんだけど、シャッポがいないんだよな」
新党「国民の生活が第一」を結成した小沢一郎代表は、新党構想を視野に入れ始めた6月下旬、周囲にこう漏らした。
「シャッポ」はフランス語で頭領を意味する。政権与党である民主党を飛び出し、中規模の新党で政権奪還を目指すには、「第3極」などの幅広い勢力の結集が必要だ。細
川政権を樹立した立役者だった小沢氏だからこそ、国民受けが良い、斬新な「顔」が欠かせないとわかっていたのだろう。
側近議員が、田中真紀子元外相や原口一博元総務相らに党首含みで新党参加を打診したものの不首尾に終わった。そうした事情もあり、小沢氏は最後まで離党以外の道も模
索していたとみられるが、グループ内の強硬論に配慮するなかで強気の構えを崩すことはできなかった。いつしか退路を断たれ、「見切り発車」の離党・新党結成を余儀なく
されたのが実情だろう。自らが党首に就くほか選択肢もなかった。
「違う道があったんじゃないか、そう思えてならない」
7月上旬。新党結成準備に駆け回るグループ幹部は、現状が決して小沢氏の本意ではなかったことを示唆した。くしくも、野田首相も2度の小沢氏との会談を終えた後にあ
る政務官に、党分裂の流れが強まる展開に困惑を隠さなかった。
「小沢さんは何も具体的な提案をしてこないんだ。なんでこうなっちゃうんだろうなあ」
小沢氏が民主党による政権交代を導いた功労者の1人であることは間違いない。だが、鳩山元首相とともに2010年6月に党幹事長を辞任して以降は、常に党内対立の
火種になってきたことも、また事実だ。
その姿はどこか、明治維新を主導した西郷隆盛の晩年と重なる。
西郷は薩摩藩の盟友の大久保利通らとともに倒幕を果たした後に、明治新政府の重責に就くも、いつしか政策的な相違が覆い隠せなくなり、郷土・鹿児島に戻る。不平士族ら
に担がれて、自らが作り上げた政府に弓を引く「西南戦争」を起こし、最後は自刃に追い込まれた。
鹿児島市内にある西郷隆盛の銅像 大久保が西南戦争後に周囲に漏らした言葉が『幕末史』(半藤一利著)で紹介されている。
「彼はただ『なんでもいやだ』と言うをもって、予も『然らば勝手にせよ』と言えるくらいの物別れなり」
「盟友」とは言い難いものの、政権交代の「戦友」だった小沢氏に対し、野田首相がたどり着いた境地は、大久保同様だったのではないだろうか。
小沢氏は党幹事長時代に、宿願だったとされる国会改革などに精力的に取り組んでいたが、不本意な辞任で、その改革は宙に浮いたままだ。
「僕が一番好きなのは西郷さん、近代政治家として尊敬するのは大久保利通」。小沢氏はかつてインタビュー(『小沢一郎探検』)で偉人への思いを披露しつつ、西郷に冷
静な論評を加えている。「現実政治家というよりも、ロマンを求めている。最大の侍だったと思う。だけど、あれでは政治にならない」
党内にとどまればロマンは望むべくもなかったかもしれない。「侍」としての評価を落としたかもしれない。それでもなお、シャッポがいない現実を冷徹に見据える「現実
政治家」として、党内に踏みとどまり、一つでも二つでも改革の実を上げる道を選ぶことはできなかったのだろうか。
(2012年7月13日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/columnpolitics/20120713-OYT8T00909.htm?from=navlk
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板