[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
小沢一郎の政権構想
2258
:
名無しさん
:2021/03/18(木) 04:50:32
https://news.yahoo.co.jp/articles/f646602275092400375082343c4d2298778611f7
小沢一郎「田中角栄先生の教えは『敵を作ることを恐れるな』」〈週刊朝日〉
2/25(木) 8:02配信
AERA dot.
創刊99年記念として、昭和、平成、令和と三つの時代を駆け抜け、週刊朝日にも多くの話題を提供してきてくれた各界の「レジェンド」たちにお話を聞きました。今回は政治家の小沢一郎衆議院議員。
* * *
政治家になったのは27歳のとき。自民党の衆院議員だった父が急逝したため、周囲の皆さんにも推され、父の地盤を引き継ぐことになりました。
選挙に出ると決意をして、田中角栄先生、オヤジの門をたたきました。オヤジは当時、自民党幹事長。威圧感があって、おっかなかった。反目していた「青嵐会」の議員たちも、オヤジの前に出るとろくろく口もきけない状態でした。
オヤジは苦学力行、立身出世した「今太閤」。官僚出身の首相が続いていたから、オヤジのような党人を待望する空気が強かった。僕も以前から強い憧れを持っていたので、議員になってからは暇さえあればオヤジの顔が見たくて事務所に行っていました。事務所に出入りするちょっとの間、オヤジから「よう」と声をかけられるだけなんだけど、それが嬉しかった。
オヤジはまさに「決断と実行」の人でした。非常に愉快で温かい人だったけど、敵はたくさんいた。しかし、悪口三昧言っていた人でも、頭を下げに来るとオヤジはすぐに「ようよう」と言って、迎え入れたものです。仕事をすれば必ず反対する人間がいて、敵もできる。それを怖がっていては、仕事はできない。そういう教えを受けました。
金丸信、竹下登両先生は、僕が1期生のときに既に5期生。いろいろと指導を受けましたし、かわいがってもらいました。47歳で自民党幹事長に就任したのも金丸さんの推薦です。今でも剛腕の幹事長だったと言われますが、それはバックが最大派閥の経世会だったから。それとやはり、田中先生に「門前の小僧」で習ったことが生きました。正しいと思ったことは自分で決断し、多少文句が出ようが構わず実行しましたから、当然僕のことが不愉快な人もいたでしょう。それでも絶対、えこひいきはしませんでした。
1991年、僕が49歳のとき、金丸さんは経世会会長でした。総裁選が近づいてきたある日、突然、金丸さんから「総理になれ」と言われました。そのときのライバルは宮沢喜一元首相、渡辺美智雄元蔵相、三塚博元運輸相。経世会は最大派閥で、宮沢さんも渡辺ミッチーさんも、僕が出馬するなら協力すると言ってくれていましたから、あのとき、「はい」と言えば、総理になっていました。
しかし、宮沢さん、渡辺さんの心境を思うと、若い僕が彼らを飛び越えて、いきなり総理にということはできないという気持ちでした。それと、僕はその少し前に心臓を患ったばかりで、また、精神的にも準備ができていなかったという面があり、固辞しました。そうしたら、金丸さんからホテルの部屋に呼び出され、「お前、何でイヤなんだ。政治家なら、たとえ3日間でもいいから総理になりたいと願うものなのに。全部、俺が支えてやる。何の心配もないから」と口説かれて、それはまあ大変でした。金丸さんにはえらく評価してもらい、あのときのことを思い出すと今でも恐縮します。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板