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京都・京師・京洛

652荷主研究者:2018/12/07(金) 22:13:16

https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181110000055
2018年11月10日 11時32分 京都新聞
ダムに沈んだ「おとぎ電車」 遊園地跡地をたどる

1950年から約9年半、宇治川に沿って走っていた「おとぎ電車」=京阪ホールディングス提供

 京都府宇治市にある天ケ瀬ダムについて取り上げた記事を読んだ読者から、「『1964年に完成した』とあるが、私が宇治で小学校に通っていた40年代には既にダムがあった」と歴史を尋ねるメールをいただいた。確かに天ケ瀬ダム以前にも堰堤(えんてい=ダム)があり、その建設のための鉄道が遊園地の一部となった歴史も。今や跡形もないが、行楽客でにぎわった夢の跡をたどった。

 宇治川遊園地、という名前にピンと来なくても、「おとぎ電車」には聞き覚えのある人もいるのではないだろうか。現在の天ケ瀬ダム(宇治市)付近から上流の大峰堰堤までの約3・6キロを、宇治川に沿って走っていた電車のことだ。京阪電鉄が旅客誘致を目指し、1950年から60年まで、遊園地内を走る遊具として運行した。

 前史は大正時代にさかのぼる。当時の電力会社が水力発電用に大峰堰堤を築造。工事資材の運搬用に、現在のJR奈良線から堰堤までの約9・6キロに鉄道を通した。堰堤完成後も、下流の志津川発電所から堰堤まで社員や物資を運ぶため、鉄路を残した。戦後、京阪が電力会社から用地や線路を借り、運行を始めた。

 「メインは列車で、遊園地が付属品のような感じだったのでは」。宇治市歴史資料館の小嶋正亮学芸員(58)は語る。マイカーが普及していなかった50年代。電鉄会社が自社路線の利用促進を目指し、沿線で観光開発を進めたという。

 同電車は、堰堤の上流で既に運行していた遊覧船などとともに、宇治川ライン観光のルートの一部となった。58年12月1日付の京都新聞には、「いそがしいときでは、一日で二十八往復、最高六千人をさばき、年間で乗客は十六万人を数え、(中略)観光宇治にはなくてはならぬ存在となった」とあり、盛況ぶりがうかがえる。

 堰堤や遊園地、線路は、64年の天ケ瀬ダム完成でダム湖に沈んだ。舞鶴市から勤務先の慰安旅行で訪れて乗車し、その後、宇治市にも住んだ女性(82)=舞鶴市上安=は「子どもが喜びそうな派手な色使いと、渓谷の景色が印象的だった。宇治に引っ越してから子どもを乗せてあげたかったけど、なくなっていて残念だった」と、当時に思いをはせた。


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