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B級News Watch ためされる大地
261
:
小説吉田学校読者
:2007/02/11(日) 19:00:50
【ためされる大地 東京スタジアム】
こち亀の「光の球場」のお話。光の球場は人々の生き方を照らすように存在する。就職に血痕に閉鎖に倒産、その片隅に野球があった。
永田ラッパも今はなく、ロッテも今や千葉にある。もしかすると、野球が人々に絶対的な夢を与えていたのは昭和だけだったのかもしれない。
東京慕情 昭和三十年代の風景<19> 東京スタジアム
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20070211/mng_____thatu___000.shtml
東京の下町、荒川区南千住にかつて下駄(げた)ばきファンでにぎわったプロ野球の球場があったことをご記憶だろうか。誕生したのは昭和三十七年六月。その名を「東京スタジアム」という。
スタジアムを本拠地としたのは当時の大毎オリオンズだ。率いたのは“ラッパ”の異名をとった永田雅一大映社長。誕生時の大毎は山内、榎本、田宮、葛城といった懐かしい選手が顔をそろえ、日本一の「ミサイル打線」と呼ばれたものである。
そのころの南千住六丁目一帯は木造家屋がひしめき、ビルも少ない下町だった。そこになぜ球場が生まれたのか。実は誕生前、この辺りには広大な土地を有する大和毛織(前身は千住製絨(せいじゅう)所)という会社があった。元社員で後に荒川区議を長年務めた森谷新さん(73)が回想する。
「会社は戦前から陸軍の軍服を作ったりして繁盛していました。戦後も朝鮮戦争の特需で毛布の生産が追いつかないほどの好景気を迎え、ガチャ万といわれたこともあったほどです」
ガチャ万とは、一度ガチャンと機械が織ると一万円もうかったという意味だ。だが三十年代に入ると業績は落ち、染色に欠かせない工業用水の渇水や規制で経営難に陥っていく。一時帰休制や移転話も出るが立て直すことができず同三十五年、閉鎖へ追い込まれていくのだ。
「連日争議が続く中、大映の永田社長がベンツに乗って会社へ来ていたのを幾度も見た。土地の買収交渉が水面下で進んでいたんですね。社長には前から下町に球場を、という熱い思いがあり、会社の広い土地はその構想に合ったんでしょう」
会社は解体され、下町では見たこともない巨大な球場が突貫工事で完成していく。ナイターの時は、最新式のカクテル光線が下町の夜空を照らし、常磐線電車からも光り輝いて見えた。下町にはなかった新名所。森谷さんも球場から無料パスをもらい、よく通ったという。
「庶民的でね。外野の芝生で野球を見ながら将棋を指す人やほろ酔いなんかもいて。下駄ばきや浴衣がけも多かった。後半になるとタダで入れてくれた。ボウリング場やスケート場もあって結構はやってましたよ」
下町らしく選手も地域の人と気軽に話したり、サインボールを配ったりした。隣接のそば店主、大森啓市さん(57)は「そば好きが多く、球場ロッカーまでよく出前した」と振り返る。
「葛城、矢頭、坂井といった選手は試合のたびに取ってくれた。アルトマンという選手を知ってるかい。良く打つ選手だったよ。彼はキツネそばが大好きでいつも食べに来ていた」
ある日、出入りしていた二軍の選手がクビになり、大森さんに「広島でテストを受けたい。一緒に行ってくれ」と相談に来た。勇気づけて同行し、運良く採用された。広島で二年がんばり、その後東京で商売を続けているという。そのころの選手はスターであると同時に気さくで身近な時代でもあった。
だが夜ごとカクテル光線に包まれた球場にやがて暗雲が漂い始める。観客の減少や映画不況で親会社の大映が不振に陥り、球団名もロッテに変更。同四十五年にはリーグ優勝するが日本シリーズで巨人に敗退。これが永田オーナーにとって最後の栄光となった。この時のロッテ打線は有藤に池辺、アルトマン、ロペス、投手は木樽など…。巨人六連覇目の年であった。
四十七年、スタジアムは閉鎖され、下町っ子が楽しんだ下駄ばき球場はわずか十年で球史の舞台から消えていく。当時、地元の野球少年だった飲食店長の青柳修一さん(46)は「ロッテの帽子をかぶっているとタダで入れてくれた。閉鎖後に区の少年野球大会があって私も出場したが芝生が伸び放題でもう球が走らなかった」と懐かしがる。
あれから激変の三十四年が過ぎ、跡地は区の総合スポーツセンターと野球場に変わった。だが森谷さんは今も近辺を通るたびに郷愁に駆られるという。
「ここに会社があり、ともに勤めていた妻と知り合って結婚した。スタジアムは私の人生には切り離せない思い出です」
長年の地域活動が評価され一昨年、叙勲を受けた森谷さん。今年は苦労を支え合った妻敏子さんと金婚式である。
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