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Tohazugatali Book Review

169名無しさん:2009/12/27(日) 11:37:04
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20091227ddm015070042000c.html
今週の本棚:松原隆一郎・評 『政治の終わり、政治の始まり…』=御厨貴・著
 ◇『政治の終わり、政治の始まり−−ポスト小泉から政権交代まで』
 (藤原書店・2310円)

 ◇時代の文脈を刻印した「講談風」宰相論
 安倍晋三政権から福田康夫政権を経て麻生太郎政権まで、厳密には民主党への政権交代まで、現役の首相について書き語った、エッセイ集である。付録として、中曽根康弘・塩川正十郎・渡邉恒雄各氏へのインタビューが附(ふ)されている。

 同じ著者の『政策の総合と権力』(東京大学出版会)や『明治国家をつくる』(藤原書店)といった重厚な学術書ではないから、学問的に受けるだろう厳密な批判に対し周到な予防線を張っているわけではない。予想を含む判断が述べられているため、後には間違いを指摘されることもありえよう。リスクのかかる仕事だが、しかし政権をどう評価するのかは学界の話題というよりも実際に票を投じる有権者の課題であるから、プロの政治学者が考え方の手筋を披瀝(ひれき)するのは意義がある。

 また政権すら毎年変わるご時世にあって、少し前に起きた出来事やそれらへの自らの反応すら記憶が薄れつつある。今なぜ民主党は事業の仕分けで官僚を痛めつけているのか、なぜ子ども手当や農家の戸別所得保障というかたちで現金をばら撒(ま)こうとしているのかは、それ以前の自民党政権で受け継がれた文脈を知らずに理解できるものではない。独立して書かれた28の短文には、時代の文脈が刻印されている。

 さらに、本書には、「人を見て面白がれる精神」が脈打っている。最近の若手政治学者は政治をデータや数理で分析し尽くせるものと思いこむ風潮があるが、経済現象ですら数値だけでは語り尽くせない。人の心情が景気を動かすのであり、まして政治においては宰相の人となりや言葉が有権者を動かす。著者の真骨頂が「講壇風」であるより「講談風」であるのは、宰相論に適した表現を選んだからだろう。

 本書の眼目は、第一に現役の宰相を値踏みして、歴史にその価値を定位することにある。多くの事柄が検討されるが、「さすがプロ」と思わせられる視点がちりばめられている。ひとつには、「自民党がダメにな」り、「国民は自民党的なるもののパージ」を行ったのだとして、何が問題になったのか、という点がある。

 目立つのは、宰相が出処進退の文法を守れなくなったこと。福田は内閣改造直後、安倍は参院選敗退後ではなく所信表明を行いまでして突如辞任した。こうした「投げ出し」は、常人のなしえない難事に対し権力を委任されている宰相の価値を公然と貶(おとし)めている。しかも麻生が冒頭解散に踏み切れないのに、次なる人材が登場しない。自民党には、人材育成ができなくなっていた。

 さらに政治家と官僚や有権者をつなぐ根回しや談合が、悪(あ)しき意味でしか機能しなくなったこともある。自民党政治においては、有権者の声は村長や町長といった「中間管理職」を介して国政に届いたが、市町村合併を経てそうしたルートが途絶した。町レベルの要望を市会、県会の議員を通じて党の予算配分に上げるというやり方だが、こうした利益配分を包括委任するルートは国民から疑問視されてもいた。かくして有権者は政治家と直接対峙(たいじ)するかに思うようになった。

 ふたつには、小泉政治とは何だったかについての卓見がある。小泉も「自民党をぶっ壊す」とは宣言したが、彼の本質は改革主義者、市場主義者という国民のイメージ通りではない。「下から上へ」利益誘導を求める田中派的ルートの解体に焦点を当てた党内抗争に、彼の視線は注がれた。だからこそ民主党の事業仕分けのような、包括委任をより徹底して粉砕する反自民政策に取り組む気持ちなどいささかもなく、世襲して平然としているのだろう。


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