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芸能裏ねたジャーナル

677小説吉田学校読者:2009/10/31(土) 08:31:36
(続き)
私の言いたいことを吉川潮氏が書いてくれていました。人情噺のイメージが強い方ですし、人情噺も最高なんですが、滑稽噺もいいんです。
謹んで合掌。

円楽さん死去「テレビと両立した稀有の落語家」演芸評論家の吉川潮さん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091030-00000655-san-ent

 東京・東陽町に寄席「若竹」を建設したのが円楽さんの最も大きな功績だと思う。落語協会分裂騒動の後、円楽一門が活動の場を失ったことで、弟子のために総工費6億円もかけて寄席を建てた。それも私財を投じ借金してまでだ。ほとんどの落語家は既存の寄席や落語会を活動の舞台にしている。落語家個人で寄席を持つという発想を持つ人はいなかった。諸々の事情により、わずか4年半で閉鎖を余儀なくされたが、円楽さんの心意気は評価されてしかるべきである。
 柳朝、談志、志ん朝とともに四天王と称された当時は「町内の若い衆」「宮戸川」など軽い滑稽(こつけい)噺(ばなし)が面白く、観客を爆笑させていた印象が強い。一門が独立してからは独演会が増えたことで、大ネタを演じる必要があり、必然的に人情噺が多くなった。昭和63年に人情噺「中村仲蔵」で芸術祭賞を受賞したのはその成果といえる。ただ、そのために「人情噺の円楽」というイメージが強くなったのは残念である。
 一門の総帥たる落語家はプレーヤーだけでなく、プレーイングマネージャーのような役割もある。円楽さんは好楽、楽太郎など後進を育てた。優れた弟子を1人も育てられない落語家が多いのだから、その功績も認めたい。
 人気番組の「笑点」大喜利の司会者としては仕切りの見事さで人気があった。木久扇、小遊三、たい平らが人気者になったのは円楽さんのリードがあったからだ。本業の落語と副業のテレビ、それを両立した落語家は少ない。そういう意味で円楽さんは稀有(けう)の落語家と言える。


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