したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

芸能裏ねたジャーナル

563小説吉田学校読者:2009/01/25(日) 11:46:49
もう「踊り子」なんて言っていないんだろうね、ストリップ業界は。

「踊り子・一条さゆり」に決別、中国発エッセーに専念
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090125-OYT1T00288.htm

 7日深夜、成田発の飛行機で香港に降り立った一条さゆりさん(50)は、ネオン輝く繁華街、油麻地に駆けつけた。
 庶民向けレストラン「茶餐庁」で蒸しご飯を注文する。一緒に頼んだミルクティーはしびれるほど甘く、体全体が幸福感に満たされた。再出発の地と決めた華南での新年の幕開けとしては、上々の気分だった。
 昨年12月。横浜市での10日間の興行で、一条さんはストリッパーとしての生活に終止符を打った。
 日大芸術学部に在学中、平凡パンチで初めてヌードを披露した。文章を書くのが好きで、大学では戯曲を専攻したが、アングラ文化へのあこがれから、卒業後はポルノ映画に出演。27歳でストリッパーになった。
 舞台転身にあたって名乗ったのは「二代目一条さゆり」。1960〜70年代に一世を風靡(ふうび)した「ストリップの女王」の名を継いだが、踊り子としては異色の道を歩んだ。
 舞台の体験を雑誌につづり、自らの出演を機にのめり込んだ香港映画の評論も書いた。「ストリッパー」(幻冬舎)、「香港的電飾」(筑摩書房)など3冊の本を40歳までに出している。
 広東省の華南師範大学に留学したのは98年。香港好きが高じて広東語を究めたかったから、そして、中国の庶民のおおらかな生活にふれたかったからだ。
 1年半の留学が終わった後も広東に残り、香港紙2紙に現地語でエッセーを寄せ続けた。一方で中国での体験を日本人に伝えたいとの思いから、2003年には「中国洗面器ご飯」(講談社)も出版した。
 やがて不景気の波が香港に押し寄せ、エッセーの連載を打ち切られる。日本から舞台出演の打診があったのは、そんな頃だった。
 04年。6年ぶりに復帰した日本の舞台では、アダルトビデオの有名女優が踊り子に加わっていた。彼女たちはショーが終わると客に自分を撮影させ、その写真を売っていた。これがショーの売り物になっていた。
 それは違う、と思った。この仕事は「舞台で見せるだけ」だったはずだ。はた目には、しょせんは裸を見せるだけの仕事と映るかもしれない。だが、必死に踊りを磨いて客と向き合ってきた自負がある。小さな誇りが傷付けられた気がした。
 以前の楽屋は人間関係が濃密で、表情の晴れない踊り子がいれば、お姉さん格が「相談に乗るよ」と首をつっこんだものだが、そんな人間関係も消えていた。「やめる潮時かな」と思ったのは去年の夏だ。
 踊り子は、その芸名とともに最後まで一つの劇場に所属するのがしきたりという。「一条さゆりの名を返上したい」と劇場に申し出た。が、答えは「返してもらっても意味がない。もうそんな時代じゃない」。引退の決意は一層固まった。
 中国に戻ったのは、人間くさい街のたたずまいに、拭(ぬぐ)いがたい愛着があるからだ。ケンカかと勘違いするほど大きな話し声、体にまとわりつくような湿気の中に漂う焼いた栗の香り……。すべてがいとおしい。
 こうした一つひとつを、今度は腰を据えて観察し、つづりたいと思う。「二代目」を取り払ったエッセイスト一条さゆりとして、華南の地で生きていく。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板