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芸能裏ねたジャーナル

336小説吉田学校読者:2007/01/19(金) 20:57:11
秋葉原→上野(→押上)→浅草。秋葉原→浅草橋→上野ではないかという声もとは氏から聞こえそうだが、浅草橋は浅草じゃなく浅草橋。
浅草はこうじゃないとね。

『デン助劇団』復活目指す 市民グループがあす浅草でシンポ
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20070119/lcl_____tko_____000.shtml

 昭和二十年代から四十年代後半にかけて一世を風靡(ふうび)した「デン助劇団」を復活させようと、台東区浅草の市民グループ「浅草がんばる会」が動きだした。同会代表で浅草で飲食店を営む河野通夫さん(61)は、かつて同劇団の座員だった。復活の手始めとして二十日、テプコ浅草館(同区西浅草)でシンポジウム「君はデン助を知っているか?」と、同劇団の秘蔵写真やがんばる会の活動などを紹介する写真展を開催する。 (丹治早智子)
 デン助劇団は、戦後間もない一九四七年に、喜劇役者の故大宮敏光さん(後に敏充に改名)が、浅草六区にあった松竹演芸場を常小屋に旗揚げした。
 はげ頭にくりくり眼、口の周りに描いたひげがトレードマークの大宮さん演じる主人公デン助を中心に毎回、笑いやペーソスに富んだ下町の人情喜劇を公演した。五九年から十三年間、テレビ放映もされ、お茶の間の人気をさらった。
 脚本、演出、主役と一人三役をこなした大宮さん。しかし、大衆芸能のメッカだった六区の衰微とともに客足も減り、「ファンには申し訳ないが、疲れちゃったんだよ」の言葉を残して、七三年四月のさよなら公演を最後に劇団を解散した。
 名古屋出身の河野さんは、喜劇俳優を目指して十八歳で上京。同劇団前で三日間粘った末、念願の座員になった。三年後には、準主役級のデン助の息子役を射止めた。しかし四年後、地方回りの主役をめぐって大宮さんと対立、劇団を破門された。
 その後は、漫才に転向、破門も許されたが、デン助劇団の後を追うように、河野さんもまた七五年に芸能界を引退した。同じように浅草で活躍し喜劇の帝王と呼ばれたエノケンこと榎本健一さんを語る人は多いが、デン助の名は忘れ去られようとしていた。
 「ぼくが語り部にならなければ」。七七年に浅草に鯨料理の店「捕鯨船」を開店してからは、河野さんを慕って店を訪れる若手芸人や客らに大宮さんの偉大さを語り続けてきた。さらに、「地域ぐるみで芸人を育て、応援していた元気なころの浅草を取り戻そう」と、「浅草がんばる会」を設立した。
 「デン助を見て育った団塊の世代がリタイアする時代になった。バブルに踊らされていた時代には忘れられていた人情喜劇を見直すには、今が好機」と河野さんは言う。
 シンポジウムはすでに満席だが、当日、若干の立ち見席があるという。一部でデン助劇団のフィルム上映。二部では、河野さんを司会に、同劇団で「スミちゃん」役を務めた宮田圭子さんらによる座談会が開かれる。


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