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古代日本史スレ

155とはずがたり:2021/07/19(月) 09:30:56

縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果
https://www.sankei.com/article/20210718-M6ILDY3F35LSVNRV5QOVOK4T2U/
2021/7/18 08:00
寺田 理恵

かつて近世の古民家のような茅葺きに復元された縄文時代の住居が、土をかぶせた屋根に変わってきた。発掘調査に基づいており、新たに復元整備される遺跡では土屋根が主流になるとみられる。31日まで開催中のユネスコ世界遺産委員会では、土屋根が複数箇所で見られる「北海道・北東北の縄文遺跡群」が登録される見通し。縄文集落の景観イメージは大きく変わりそうだ。

まるで土饅頭
裏側から見ると、まるで土饅頭だ。「北海道・北東北」を構成する17遺跡の一つ「入江貝塚」(北海道洞爺湖町)の復元住居は土で覆われ、従来の茅葺きとイメージを大きく違える。「風が入らず、保温性が高い」(同町教育委員会)という。

茅葺きのイメージがあるのは、現在見られる復元住居の多くが茅葺きのためだ。縄文や弥生時代の家は、地面を掘りくぼめて複数の柱を立て、その上に屋根を掛けた半地下式の竪穴住居。床のくぼみや柱穴は全国で見つかっているが、失われた屋根は遺物などから推測して復元される。

茅葺きは戦後間もなく、弥生時代の集落・水田跡「登呂遺跡」(静岡市)などで竪穴住居が復元された際に採用されたが、当時は屋根の素材が分かっていなかった。

登呂遺跡では水田と集落が一体となって確認され、考古学ブームが発生。教科書にも載せられ、水田稲作のイメージとともに茅葺きも定着した。埋蔵文化財は地表に建物がなければ集客が難しい。各地の遺跡で茅葺きを参考に復元整備が行われた。

住居跡の焼土が物証に
土屋根の可能性が高まったのは、ここ30年余りの発掘や研究の成果だ。「北海道・北東北」の一つ「御所野遺跡」(岩手県一戸町)で平成8年に行われた焼失住居跡の調査では、焼け残った柱や屋根材と焼土の堆積状況から全国で初めて縄文時代の土屋根住居を確認。樹皮の下地に土をかぶせた土屋根が復元された。


御所野縄文博物館の高田和徳館長は茅葺きのイメージが根強い要因を「全国の焼失住居跡の調査で茅は出土量が少ないことが分かっているが、茅葺きで復元したものを変えるには費用がかかるため各地でそのまま残っている」と指摘する。

大型掘立柱建物で有名な縄文の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(青森市)の復元住居は茅・樹皮・土の3種類で葺かれている。同遺跡センターによると、平成7年から復元が進められ、土屋根は14、15年度に計5棟が整備されたという。

「今後も増える」
土屋根は「北海道・北東北」以外の縄文遺跡でも「北代遺跡」(富山市)「宮畑遺跡」(福島市)「勝坂遺跡」(相模原市)など各地に広がっている。

「梅之木遺跡」(山梨県北杜市)では、平成30年から年1軒ペースで復元が進む。同市教委の佐野隆参事は「茅葺きか土屋根かではなく、年間を通して土屋根の住居を使っていたかが議論になっている。土屋根は夏に蒸し暑くなるので、実験のため5月頃に屋根から土を下ろして樹皮だけにしている」と話す。


遺跡整備コンサルタント会社「ウッドサークル」(東京都中央区)の中田英史社長は「考古学的調査結果から、この10年ぐらいは土屋根が増えており、今後も増える可能性がある」とみる。


文字による記録のない縄文時代の住まいや暮らしぶりが、発掘調査などで明らかになってきた。「北海道・北東北」の世界遺産登録をきっかけに遺跡整備の機運が高まれば、縄文の集落景観が塗り替わりそうだ。

156とはずがたり:2022/04/17(日) 23:42:43
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/773882
法成寺跡で巨大礎石発見「逸話通り」 藤原道長が創建、平等院のモデル
2022年4月17日 6:00
日山正紀
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平等院のモデルになった藤原道長による巨大寺院・法成寺(ほうじょうじ)跡(京都市上京区)の工事現場で、礎石など石材3点が見つかっていたことが…

157とはずがたり:2022/10/11(火) 16:07:29
すげえな,これは保存しておかなあかんやろ。。

「まさかの発見に頭の中まっ白」弥生から明治まで2千年分、生活の痕跡残る遺構
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220903-OYT1T50239/
2022/09/04 13:22

 平安初期の史書「日本後紀」に水運拠点として登場する川港「 淀津よどつ 」の遺構が、桂川西岸(京都市伏見区)から見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所を驚かせたのは、生活した痕跡が残る遺構面が時代別に10面確認されたことだ。水害を示す粗い砂の層はなく、弥生期から明治期まで2000年の間、人の営みが途切れなかったことがわかった。発掘時の様子や発見の意義を聞いた。(山口景子)

■「状態良好 奇跡的」

 調査は、昨年11月〜今年3月、長岡京跡・ 淀水垂大下津よどみずたれおおしもづ 町遺跡(約1万5000平方メートル)の約1600平方メートルで実施された。

 昨年末、地表から1メートルほど下で江戸期の面を確認。ツルハシで一部を深く掘り下げた断面から、目視で見分けがつく濃淡の土層が見つかった。

 「まさかの発見に、頭の中がまっ白になった。すぐに弥生期の土器片が出始め、想定のはるか上をいった」

 調査研究技師の松永修平さん(31)は振り返る。

 掘り進むと遺構面は計10面(厚さ約3メートル)になった。弥生期の約2メートル下には、縄文期に 堆積たいせき した土層も存在した。

 2月頃から順次、現地入りした研究者らも「ただ事ではない」と驚いた。3月に訪れた西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は「これほど長期にわたって続いた遺跡が、良好な状態で出土するのは奇跡的」と述べた。

■30メートル以上の堀も
 国内外の土器・陶磁器片などの出土品は、整理用のコンテナ(縦54センチ、横34センチ、深さ15センチ)214箱にのぼった。

 弥生期の土層からは、緑色の管玉石材や、東海、瀬戸内地方の土器片が多数出た。当時、すでに遠隔地との交流があった証拠だった。

 鎌倉期では、大型井戸の跡(直径約4メートル、深さ3・6メートル以上)に、平安後期の瓦片が補強材として埋まっていた。鳥羽離宮でも使われていた高級品で、天皇家との関係や、淀津の繁栄がうかがえた。

室町後期〜安土桃山期の堀跡から出土した備前焼の巨大なつぼを手に「水か酒をいれたのでは」と話す松永さん
 室町後期〜安土桃山期の堀は、長さ30メートル以上、幅4メートル以上になった。堀の中からは、年号入りの木簡「こけら経」や、中国の皇帝が使った景徳鎮の皿も見つかった。現在は山科区にある大徳寺の外周を囲んだ堀そのものの可能性が高まった。

 松永さんは「文献からは読み取れない情報が満載の貴重な資料ばかり。平安京や長岡京、淀城と関連づければ、2000年の日本史を追える」と胸を躍らせる。

 調査は、国の淀川水系河川整備計画に基づき、桂川の治水工事前に実施されている。終了後、遺跡は河床を下げるため掘削される予定。相次ぐ発見を受け、市と埋蔵文化財研究所は、今年度の調査目的を遺跡の全体像を把握する方針に切り替えた。

 今後、船着き場などの重要な発見があった場合、水害対策の工事と、遺跡保存という難しい課題が出てくることも予想される。

 全国的に有名なケースは、広島県福山市の 草戸千軒くさどせんげん 町遺跡だ。1961年、同じく河川整備に伴う調査で、川から中世の大規模集落跡が丸ごと出現。調査は約30年にわたり、自治体や地元保存会が議論を重ねた結果、出土品の展示場所として県立歴史博物館が開館した。実物大の中世の町並みも復元され、今も多くの人が訪れる。

 遺跡活用の模索は始まったばかりだ。

        ◇

 今回の成果は、9月6日から10月2日まで、京都市考古資料館(上京区)の速報展で紹介される。

  ◆淀津 =平安京の南約10キロ、桂川と宇治川、木津川が合流する淀川の起点にあった川港。他の津や伏見港とも共栄したが、1900年の集落移転で姿を消した。


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