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古代日本史スレ

14とはずがたり:2006/08/12(土) 00:33:46
【山崎橋】
今の橋本と山崎の間に山崎橋と云う橋が昔は架かっていたらしい。行基が作ったという言い伝えもあるくらいの古い橋だ。11世紀(平安後期)に廃絶し織豊期に復活したが近現代は渡し船だったそうな。渡し船も廃止になり今では京滋バイパスがその継承者か?
http://www.google.com/search?q=%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E6%A9%8B&hl=ja&hs=0Ak&lr=&client=opera&rls=ja&start=20&sa=N

15とはずがたり:2006/08/12(土) 00:36:16
>>14-15
【京阪間の交通 淀川の渡し舟】
http://www82.sakura.ne.jp/~hashimoru/keihankan/traffic-watashi.htm

16とはずがたり:2006/08/22(火) 21:19:57
邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060822-00000306-yom-soci&kz=soci

 古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。

 邪馬台国が存在した時代(3世紀前半〜中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)を中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。

 2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた二重構造の埋葬施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。

 一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、全長25メートルの前方後円形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土している。埋葬施設は二重構造とみられている。
(読売新聞) - 8月22日16時59分更新

17とはずがたり(1/4):2006/09/04(月) 01:21:18
蘇我氏は結構好きな氏族だ。

蘇我倉山田石川麻呂<上>
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140608180001
2006年08月18日

 『追悼の会式を復活したい』

 蘇我入鹿を倒すクーデターに加担した人物が、異母弟の密告で死に追いやられる。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の事件には、同族内のどろどろした愛憎や権力欲がまつわりついている。

 一家の自害の舞台となった山田寺の跡は、広々とした草地の中に盛り上がる土壇が金堂や塔のあったところを示すだけだ。余計なものがないぶん、古代の悲劇にあれこれ思いをはせることができる。

 上手(かみて)には寺跡を見下ろすように大和棟と石垣が美しい家々が並ぶ。下手(しもて)のこんもりした森は東大谷日女(ひがしおおたにひめ)神社だ。明日香村との境に近い桜井市山田にある寺跡は、飛鳥でも私の好きな場所のひとつである。

 寺跡の北側に小堂と庫裏(くり)がひっそり建っている。名は「山田寺」だが地元の年配者には「華厳寺(けごんじ)」の方が通りがいい。倒壊した東回廊が往時のままの姿で発掘され一躍有名になったころから、もっぱら山田寺と呼ばれるようになったようだ。

 石川麻呂の死後、隆盛した山田寺は中世以降に衰退し、江戸時代には荒廃に近い状態だったという。

 石川麻呂は今の寺にどう伝えられているのだろうか。武田正道住職は昨年2月に亡くなったと聞いていた。どうしようか迷ったが、玄関で来意を告げたら、妻千代子さん(85)が快く話をしてくれた。

 「ここは興福寺の末寺です。檀家(だんか)がないので収入がありません。主人は勤め人、私は和裁で家計を助けてきました」

 「お祭りといえば、4月に観音講(かんのんこう)がありました。お稚児(ちご)さんの行列があり、子どもたちにお餅や袋入りの菓子を配りました。昭和30年代の中ごろまで続きましたかねえ、主人が体をこわしてやめてしまって……」

18とはずがたり(2/4):2006/09/04(月) 01:21:35

 石川麻呂が建築中の山田寺で自害したのは649(大化5)年3月25日のこと。観音講は石川麻呂の供養の祭典だったのではなかろうか。

 武田正道さんは山田地区にある善行寺(ぜんぎょうじ)の生まれ。興福寺で修行した縁で戦後、山田寺に派遣された。善行寺住職の武田博彰(ひろあき)さん(54)は甥(おい)にあたる。

 「観音講は『会式(えしき)』と呼ばれていました。山田石川麻呂の追悼の会だったと思います。できれば来年から復活したい」と博彰さんは語る。

 可能性は大いにあると思う。正道さんのあと寺をどうするか、興福寺と地元が話し合った結果、興福寺の森谷(もりや)英俊執事長が宗教法人の代表役員に、博彰さんと山田区長の福井洋さんが役員になることでまとまった。

 千代子さんによれば、子どものいない正道さんは「私のあとは博彰に頼みたい」とつねづね話していたそうだ。会式が復活すれば、叔父さんの意を継ぐことになる。

 山田寺について、桜井市に暮らし古代の大和を研究している田中八郎さん(75)から、こんな話を聞いた。
 「普通の神社は集落の上手にある。ご神徳と水はいただくものという考えからです。でも山田は神社も山田寺も集落より低いところにある『祭神侮蔑(ぶべつ)型』だ。無実の罪で死んだ石川麻呂に人々の敬慕心が高まらないよう、村民をあえて上手に移住させたのではないか」

 興味を覚えて山田地区に住む裏出(うらで)太一郎さん(86)にぶつけてみたら、こんな返事だった。

 「今は枯れてなくなったが、集落の上の水源地に東の神木(かんのき)、西の神木という2本の大木があった。神様には山神と里神があるでしょう。私は神木が山神で東大谷神社が里神だったのではないかと思いますね」
 武田博彰さんが子どものころ、神木に雷が落ちて村中大騒ぎしたそうだ。あの世の石川麻呂のご機嫌が悪かったのだろう。

■蘇我倉山田石川麻呂 蘇我氏の有力氏族の長。中大兄皇子の側につき蘇我入鹿殺害に加わった。右大臣にまでのぼった。しかし異母弟の蘇我臣日向(そがのおひむか)が中大兄に「皇太子殺害の意図がある」と密告した。窮地に陥った石川麻呂は反撃を主張した長男を抑え、妻子と山田寺で自害する。後に無実を知った中大兄は悔やんだというが、その割には日向らの処分は甘かった。山田寺跡近くの飛鳥資料館では、82年に出土した東回廊の一部が保存処理を経て展示されている。
 <文・桐村英一郎 写真・塚原 紘>

19とはずがたり(3/4):2006/09/04(月) 01:21:58

蘇我倉山田石川麻呂<下>
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140609010001
2006年09月01日

■子孫に遺産保存の責重く

 子孫探しといっても、手がかりがない。

 石川麻呂の無実の罪を晴らしたいと、山田寺跡に「雪冤(せつえん)碑」を建てた山田重貞(やまだしげさだ)が暮らした越前粟田部(あわたべ)は、福井県今立(いまだて)町に属した。今は合併で越前市粟田部町になっている。

 市の教育委員会に電話したら、旧今立町の図書館に勤務していたという小林博之さんにつないでくれた。

 粟田部町で家具店を経営している宮田尚一さん(68)が山田家の歴史に詳しく、重貞の子孫の方とも交流があるという。

 さっそく連絡を取った。宮田さんから、福井市に暮らす山田邦子さんと娘の大島麻美子さんが直系と聞き私の趣旨を伝えていただくよう頼んだところ、お母さんは病弱で無理だが、麻美子さん(56)が会ってくれるとのこと。4月中旬の日曜日に福井へ出向いた。

 福井市の中心部にある大島幹郎さん(56)の自宅には宮田さんも来てくれた。

 「越前に根を下ろした山田家は薬を京、大阪に売って財をなした。その歴史は粟田部の歴史です。古文書や骨董(こっとう)品をこれ以上散逸(さんいつ)させるわけにいかない。重貞が建てた石川麻呂の廟(びょう)の保存も課題だ。地元の人間として一役買いたいと思いました」

 近江神宮に預けていた白鳳、平安期の大小二体の神像は石川麻呂をかたどったと伝えられている。それを今立の歴史民俗資料館(現・越前市定友町)で保管するよう尽力したのも宮田さんだ。

 山田重貞は石川麻呂から数えて53代目、麻美子さんは60代目にあたる。

 「母は私が大島家に嫁ぐとき何も言いませんでした。山田の家系を継がせることの重さを考えたからだと思います」と麻美子さんは語る。

 母の邦子さんには、山田家を継いでもらいたい気持ちと、子どもに重荷を背負わせるに忍びないという気持ちとの葛藤(かっとう)があったに違いない。

20とはずがたり(4/4):2006/09/04(月) 01:22:31
>>17-20

 幹郎さんは「結婚前にお母さんとお目にかかったが、山田家の話は何もなかった。祖廟(そびょう)や歴代のお墓は守りたい」という。

 幹郎さんは学生時代に大島家の養子になった。彼に「山田姓を継いで」とは頼みにくかったのだろう。

 いま大島さん夫妻は山田姓を存続させる方法がないか思案中だ。2人には、まどかさん(25)と英輝さん(24)というお子さんがいる。

 粟田部町にある祖廟と、歴史民俗資料館に保管されている神像や家系図を見せていただくため出かける際、麻美子さんは子どもたちに声をかけた。一家の歴史への「自覚」を呼び覚ましてもらいたいという親の思いをそこに感じた。

 粟田部の町並みを見下ろす歌鳳山(かほうざん)の斜面に江戸末期に重貞がつくった祖廟がある。長い石段の上にお堂があり、中に石造りの神殿がふたつ並んでいる。ひとつは石川麻呂の廟、もうひとつはお稲荷(いなり)さんだという。

 それぞれ優美な作品だが、お堂は傾き、柱の下は腐ってきた。昨年末のような大雪にまた見舞われたら、と心配になる。

 祖廟全体も荒れた印象を受けた。サラリーマン一家には維持や保存は重すぎるのだ。

 「県の文化財にしてほしいと頼んでいるが、時代が新しすぎるといわれた」と宮田さんは唇をかむ。押し黙って祖廟を見つめる大島さん親子に、声をかけにくかった。

 図書館と同じ建物にある歴史民俗資料館で越前市議の上田伸治さんや小林博之さんらと一緒に、山田家から寄託された品々を拝見した。

 麻美子さんはひとつひとつリストと照らし合わせながら、子どもたちに説明した。食い入るように見つめる、まどかさんと英輝さん。それはとてもいい光景だった。

 麻美子さんは30年ほど前に母と山田寺跡を訪ねたそうだ。

 「来年、石川麻呂ゆかりの観音講を復活させようという話がありますよ」と私が話したら、「ぜひ行きたい」という返事がかえってきた。

 <文・桐村英一郎 写真・塚原 紘>

21とはずがたり:2006/10/12(木) 22:55:47
万葉仮名の最古の木簡出土、日本語表記解明に一級資料 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/12yomiuri20061012i414/

 大阪市の難波宮跡で、漢字1字に日本語の1音をあてる万葉仮名で文を記した最古の木簡(7世紀中ごろ)が出土したと、市教委と市文化財協会が12日、発表した。

 「春草のはじめのとし」と読め、和歌の一部とみられる。

 万葉仮名の文は天武朝(673〜686年)以降に成立したという定説を20〜30年さかのぼり、日本語の表記や和歌の始まりを解明する上で第一級の資料となる。

 木簡は長さ18・5センチ、幅2・7センチで、下部は折れてなくなっていた。

 表に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)■(■は判読不能)」の12文字が墨で書かれていた。

[ 2006年10月12日20時30分 ]

22とはずがたり:2006/12/08(金) 22:40:22
しらんなぁ。。こんな乱あったっけか?

伊治城:伊治公呰麻呂の乱の名残り? 南端に火災跡−−栗原市教委 /宮城
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061208-00000189-mailo-l04

 栗原市教委は7日、同市築館城生野に広がる律令時代の城柵(じょうさく)「伊治城」の南端で火災跡を確認したと発表した。伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)の乱(780年)の名残りと推定される。
 焼失したのは東西6・7メートル、南北5・1メートルの格式の高い「八脚門」とみられる。赤く焼けた壁土が残っている。「続日本紀」によると、呰麻呂は栗原地方の服属蝦夷(えみし)の族長だったが、伊治城を攻めて大官を殺し、南下して多賀城を焼き打ちした。
 以前の発掘で、伊治城中心の正殿で火災跡が見つかった。今回はそこから南へ200メートル以上離れており、反乱の火の手は伊治城のあちこちで上がったとみられる。また、火災後の再建期のものとみられる築地塀跡も見つかった。
 伊治城は陸奥国経営のため767年設置された城柵。国史跡。現地説明会は9日午前10時半から。【小原博人】

12月8日朝刊
(毎日新聞) - 12月8日14時1分更新

23片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/03/21(水) 01:08:34
ここ、ほんとに大学の構内なんだけど、まるで某大学の折田先生みたいだw

馬曳く人、セットで出土…大阪の待兼山古墳、埴輪復元
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070320i418.htm?from=main4

 大阪府豊中市の大阪大構内にある待兼山(まちかねやま)5号墳(5世紀末)で、最古級の馬を曳(ひ)く人物形と、馬形の埴輪(はにわ)がセットで出土し、20日、同大学が発表した。

 2005年度の調査で、直径15メートルの円墳の周溝から埴輪片約5000点が出土、馬曳人形と馬形埴輪の破片はまとまって見つかった。

 復元した結果、馬曳人形(高さ64センチ)は左手を上げて手綱を曳き、顔に入れ墨を線で刻んでいた。

 馬形(高さ78センチ、長さ98センチ)は鞍(くら)やひづめなど細部まで表現されており、福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は「大型前方後円墳の出土品と比べても遜色(そんしょく)のない出来栄え。新しい習俗の乗馬を取り込んだ埴輪の祭りが、広く浸透していたことがわかる」。

(2007年3月21日0時49分 読売新聞)

25とはずがたり:2007/05/31(木) 23:37:24
超古代史。マクワウリのことをメロンと言い切ってしまって良いのか!?

2100年前のメロン出土=弥生時代の遺跡から−果肉も、世界最古か・滋賀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070531-00000129-jij-soci&kz=soci
5月31日17時32分配信 時事通信

 滋賀県守山市教育委員会は31日、同市下之郷町の環濠(かんごう)集落跡「下之郷遺跡」で、約2100年前(弥生時代中期)のメロンの果実が出土したと発表した。メロンの種子は全国の同時代の遺跡から出ているが、市教委は「表皮や果肉が残ったものが発見されるのは大変珍しい」と話している。
 出土した果実は長さ約10センチ、高さ約5センチ、厚さ約5ミリの半球状で、中は空洞のようになっている。炭化しておらず、表皮は茶色で硬く、果肉は黒っぽい色で軟らかいという。
 市教委の依頼を受けた総合地球環境学研究所(京都市)がDNAを解析した結果、メロンと判明。含まれる微量の放射性炭素から2120年プラスマイナス40年前のものと分かった。
 品種は国内で古くから食べられてきたマクワウリかシロウリとみられるという。
 果実が残った理由について、市教委は「出土した層は湿っていた上に酸素の供給がほとんどないため、微生物が活動しにくく、真空パックのような状態になっていたからではないか」と話している。
 加藤鎌司岡山大教授(植物育種学)の話 弥生時代にメロンが食べられていたことが今回の発見で裏付けられた。約2100年前のメロンの果実は世界最古と思われ、学術的に大きな意義を持つ。

26とはずがたり:2007/06/04(月) 15:54:34

西野山岩ヶ谷はこの辺。恰度真下を新十条通りが貫通する辺りか。
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=34/58/09.739&el=135/47/42.853&scl=25000&bid=Mlink

田村麻呂の墓か
山科・西野山古墓 文献で一致
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007060400059&genre=M2&area=K10

 平安時代初期の征夷大将軍で清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂(758−811)の墓が、山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓(こぼ)」である可能性が高いことが、京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)の文献調査で、4日までに分かった。

 吉川准教授によると、平安後期の「清水寺縁起」に田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述があり、平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したという。同古墓から1919年に出土した金装大刀や鏡(いずれも国宝)などの年代がほぼ同じころで、上級貴族が所有するような高級品なことから、田村麻呂の墓だと判断した。

 現在、同古墓から南東約1・5キロの同区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。また、73年には民間の郷土史研究の論文で、吉川准教授と同じ方法によって、同古墓近くに田村麻呂の墓があるとする指摘がされている。
 吉川准教授は「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口でにらみをきかす意味もあったのではないか」と話している。

27とはずがたり:2007/06/04(月) 16:27:56
>>26-27
【坂上家系譜】

後漢霊帝━延王━石秋王━阿智使主(阿知王)━都賀使主(高貴王)━志努直┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗[坂上]駒子直━弓束直━首名直━老※1━大国※1━犬養━苅田麻呂┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣田村麻呂※2━※2
┗鷹主━貞守(丹後守。伝美濃国の徳山氏祖)
※2┳(長男)大野━氏高━樹並
__┣(次男)広野┳峯雄━峯盆━行松(行増,秋田城介権守,平野家祖)━高時
__┃_____┗当道※31━広道━國当━恒蔭━範親━定成━※3
__┣(三男)浄野━当道※32┳恒蔭━…━是保(18世紀後半の人。町口大判事、町口下総守)━是久(文化2年-没年不詳。坂上町口五位、越中守)
__┃__________┗好蔭※4━是則※5━望城※6━厚範(主計算師)━範親(主計頭)━定成━※3
__┗春子(桓武妃葛井親王・春日内親王生母)
※3┳範政/範明━明兼━□━明基(1138-1210.5.7。「法曹至要抄」「裁判至要抄」作者?1185年明法博士)
__┗兼成(保元の乱・平治の乱の頃の明法博士)

※1:壬申の乱で天武方に着いて活躍
※2:今でもなく坂上家のエース
※3:平野庄の経営に携わりこの地に根付く。伝杭全神社を創建。
※4:鎮守府将軍小野春風の指揮の下、878年の元慶の乱(秋田城で蝦夷が起こした反乱)を鎮圧するために出兵するなど軍人としても活躍し、従四位上右馬頭、右近少将に迄昇る。
※5:三十六歌仙の一人。大和権少掾・少内記・大内記をへて、924年(延長2年)従五位下加賀介
※6:梨壺の五人の一人

院政期社会の言語構造を探る
http://www.furugosho.com/inseiki/kanezane/kanezane-note2.htm

28野だたら:2007/06/12(火) 00:39:57
古事記記載のイザナミの神陵があると言われる、山陰の島根県安来市へいったこ
とがありますが、そこは出雲国風土記の伝えるところによると、大穴持(大国主)
大神がヤマタノオロチを退治したとあるそうです。しかも、その地の「安来」と
いう名を命名したのがスサノオであるともされています。
 そこは「もののけ姫」で有名になったたたら製鉄が紹介されている和鋼博物館
があり、かつてこの地は大規模な出雲式製鉄が行われていたときかされました。
日本庭園が世界一と言われる足立美術館もこの地にあり、横山大観の神代を題材
とした絵には圧倒されました。不思議な大地の力を感じたようでした。

29とはずがたり:2007/06/12(火) 01:06:33
>>28
お初であります。
島根には行ったことがありますが子供の頃家族と松江城,学生の頃貨物駅の調査と余り神秘的な体験は出来てませんね。。
能義郡下の町村が全て安来市に併呑されて能義の名前が消えてしまったなぁと思ってましたが安来の名前も随分と古くから有るようですね。
我が静岡には日本尊命伝説ゆかりの草薙とか焼津とかの地名が残ってますがあんま神秘的な土地でもないなぁ・・

31やおよろず@考古学:2007/08/09(木) 02:41:49
人類祖先、同時期に2種 定説覆す化石発見 ケニア
http://www.sankei.co.jp/culture/kagaku/070809/kgk070809000.htm

 ケニア北東部で、いずれも約150万年前のものとみられる2種類の人類祖先の化石を発見したと、英米などの国際チームが9日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

 2種類のうち一方は猿人と原人の特徴を併せ持つホモハビリス、もう一方は原人ホモエレクトスとみられる。現在、人類はこの200万年の間に、ホモハビリスからホモエレクトスに進化、さらに現代人のホモサピエンスになったと考えられている。今回の発見で、ホモハビリスとホモエレクトスは同時期にほぼ同じ地域で暮らしていたことになり、定説の見直しが迫られるという。

 チームは2000年、トゥルカナ湖東岸で上あごと頭骨の化石を発掘。上あごには6本の歯があり、犬歯や臼歯の形状からホモハビリスと判断した。地層の火山灰から144万年前のものとされ、これまで165万年前までとされていたホモハビリスの存在時期を20万年以上更新した。

 頭骨は頭頂部やあごとの結合部の形状などから155万年前のホモエレクトスと判断された。

 この結果、ホモハビリスとホモエレクトスは50万年間にわたって、ほぼ同じ地域で生きていたことになり、チームは「ホモエレクトスはホモハビリスから進化したのではなく、共通の祖先から分かれたのだろう」としている。

(2007/08/09 02:30)

32とはずがたり:2007/09/20(木) 16:36:54
発掘させんとあんま実効性ないわな。

明治天皇陵など調査許可へ
宮内庁、歴史16学会代表に
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007092000019&genre=A1&area=K10&mp=

 宮内庁は20日までに、日本考古学協会など考古学や歴史学の16学会の代表者に、京都市の明治天皇陵(伏見城跡)と、古墳時代のものとされる奈良市の神功皇后陵(五社神古墳)の2カ所への立ち入り調査を許可する方針を固めた。

 調査は来年2月から3月になる見通し。歴史関係各学会が連携し、約30年前から陵墓公開の要求を続けていた。

 宮内庁は「皇室神事の対象で、単なる文化財ではない」と歴代天皇や皇族の陵墓の学術調査を実質的に認めてこなかったが今年1月、陵墓管理に関する内規を変更。調査できる範囲は限定的だが、研究テーマを問わず申請があれば審査の上、調査を受け入れるよう方針を転換した。
 内規によると、歴史学だけでなく、すべての分野の研究者が所属の研究団体を通じて申請できるようになった。外観を目で確認するのが中心で、墳丘に立ち入る場合は1段目の平らな場所まで。発掘は認めず、人数は申請ごとに判断する。(共同通信)

33とはずがたり:2007/10/29(月) 10:49:56
桓武朝から嵯峨朝辺りに掛けて平安時代の基本形が形作られてきて,それが日本の原型の大きな部分を形成してるよなぁ。

小野妹子、蘇我馬子は男でしたが
女性名に「子」が付いたのはいつ?その由来を調べてみた
2007年10月29日10時00分
http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB001120/id/200710251117?vos=nr25ln0164002
女性名に「子」が付いたのはいつ?
その由来を調べてみた
(2007.10.25)

陽菜、葵、さくら、美羽、美咲―これらは『たまひよ2006年名前ランキング』上位5位の名前。対して○子はベスト100中、「莉子」「桜子」「奈々子」のランクインのみ。○子は定番だと思ってたのに…。とはいえお婆ちゃんの世代でも「ハル」など「子」じゃない名前も多いし、さらに大昔では、「子」は「小野妹子」「蘇我馬子」など男性にもついた名前だった気がする。ではそもそもいつから女性名に使われ始めたのか?

日本の女性名の歴史を解き明かした角田文衛の『日本の女性名』(国書刊行会)と『名前の日本史』(文春新書・紀田順一郎)によると。

最も古い○子は『古事記』で雄略天皇に名を問われる(=求婚される)「赤猪子」だとか。「コ(子、児、古)は初め、特に身分の高い男性の名の下につける語であった」が、「男女名の語尾に厳重な区別のない日本では、5、6世紀において早くもコで終わる(上中流階級の)女性名が現れた」。

それでも「郎女」や「女」などが多勢だった古代の女性名。そこへ「子」が広まったのが平安時代。嵯峨天皇が、皇女の名前を内親王(皇族)には○子を、臣籍降下した(皇族ではなくなった)皇女には源○姫と命名すると決めてからだという。

鎌倉時代には、貴族の女性名が○子ですっかり定着。しかしその後の武家社会到来により女性の身分が著しく低下し、名前が簡略化。子が付くのは皇族だけに。

ふたたび「子」が増殖するのは明治時代の姓名改革から。まず上流階級の女性や、高級官史の配偶者が、その地位にふさわしい「子」の付く名前に改めた。社会進出を果たす女性もまた積極的に○子に改名。小泉八雲によると、一般の女性や芸妓までもが、子を名乗りだしたため、ある新聞が法律で禁止せよと要望したほどだとか。

今もそうですが、古くから「○子」はロイヤルな意味をもつ高貴な名前だったのですな。珍しい名前が多い昨今、「○子」のほうがむしろ個性的なのかも?
(熊山 准)

34とはずがたり:2008/09/04(木) 03:10:39

最古の畑:東日本で「稲作前の畑作」 静岡・手越向山遺跡
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080904k0000m010080000c.html

 静岡大人文学部考古学研究室は3日、静岡市駿河区手越の佐渡山にある手越向山遺跡で、弥生時代中期後半以前の畑とみられる遺構が見つかったと発表した。畑の遺構としては東日本最古級で、東日本では古代人が本格的な稲作を始める前に畑を耕して生活していたことを裏付ける資料として注目される。

 稲作中心の文化は、東日本では弥生中期中ごろから本格的に広まったとされている。丘陵地の遺跡から畑作に使ったとみられる弥生中期前半の石斧(せきふ)(石のくわ)が見つかることが珍しくなく、これまでも稲作移行前に小規模な畑作をした時期があると想定されていた。

 静岡大研究室は、佐渡山でも弥生中期初頭の石斧が発掘されたため調査。弥生中期後半(約2000年前)の方形周溝墓の下に、掘り返したような跡がある土壌を発見し、畑を耕した跡と判断した。

 畑跡は縦3〜4メートル、横10メートル。篠原和大准教授は「石斧を使って耕していたとすれば中期初頭の約2300年前の畑の可能性もある」とみている。

 全国的には、三重県松阪市の筋違遺跡の畑跡が弥生前期中ごろで日本最古級とされている。東日本では、静岡県沼津市の植出遺跡など、弥生後期後半(約1800年前)のものまでしか見つかっていなかった。

 石川日出志・明治大文学部教授(考古学)は「東日本では稲作前に畑作が一定の役割を果たしていたという想定をこれから議論できるようになる」と発掘の成果を評価している。【望月和美】

毎日新聞 2008年9月3日 21時16分(最終更新 9月3日 21時57分)

35とはずがたり:2008/09/20(土) 13:08:45

紀貫之が通った南海道?
県内初 官道跡が出土
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20080919-OYT8T00611.htm

 南国市小籠の士島田遺跡を調査している県埋蔵文化財センターは19日、8世紀に敷かれた官道・南海道の一部とみられる道路跡が、県内で初めて出土したと発表した。奈良の都と土佐を結んだ「古代の国道」。10世紀までは使われており、土佐日記を著した紀貫之が国司を務めていた930年ごろと時代がかぶるため、同センターは「紀貫之も通った可能性が高い。古代の土地整備をどのようにしたかが分かる貴重な発見」としている。

 道路幅は6メートルで当時としては広く、南北30メートル分を発掘した。北には国分寺や国府跡があり、さらに香川から淡路島、和歌山へと通じていたらしい。東西両側に幅80センチ、深さ30センチの側溝が並走しており、道路跡と分かった。道路面の排水のためとみられる溝も出土し、底には小石が40個ほど敷き詰められていた。

 奈良時代は全国各地で、土地区画制度「条里制」にのっとり、東西南北に沿って道路や建物が整備されたことが分かっているが、出土した道路跡の方向は南北よりもやや東に振れていた。周辺から出土する建物跡も同じ方向を向いていることから、山本哲也・調査第1班長は「主要道路を造り、それを基準として区画整備を行っていったのだろう。土佐の条里制を考える基礎資料となる」と話している。

 現地説明会は21日午後1時半〜午後3時半。
(2008年9月20日 読売新聞)

36とはずがたり:2008/09/20(土) 13:09:34

奈良・平安の「伝路」か
安中で出土
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20080919-OYT8T00775.htm?from=nwlb

 安中市教委が同市松井田町人見で発掘調査を進める2遺跡から、奈良、平安時代に造られたとみられる直線状に延びる道の遺構(長さ約350メートル)などが出土した。市教委によると、2000年には、両遺跡の東約800メートルの人見大谷津遺跡からも道とみられる溝が確認されており、今回出土した遺構と合わせて約1キロの道が概観できたことになるという。市教委は20日、一般向けの現地説明会を開く。

 調査中の人見枝谷津(えだやつ)遺跡と隣接する人見東向原(ひがしむかいはら)遺跡の調査区域(計約4・5ヘクタール)で確認された道の遺構は、幅約9・5メートル。両側に排水用の溝跡があった。市教委は、幅などから、現在の一級国道に相当する東山道(とうさんどう)に接続する、県道のような役割の「伝路(でんろ)」の可能性が高いとみている。

 645年の大化の改新以後、国家主導の交通網整備が進んだが、名もない伝路の研究は不十分だったといい、市教委は、「これほどの規模と状態で溝が発見されたのは県内でも珍しい。伝路研究のきっかけとなれば」と期待する。

 市教委は、県営畑地帯総合整備事業の一環で、06年に調査を始めた。古墳時代に一般の人々が住んでいた規模の竪穴住居130軒以上の集落跡も出土した。

 説明会は午前10時と午後1時半の2回。小雨決行。問い合わせは、同市教委学習の森文化財係(027・382・7622)。
(2008年9月20日 読売新聞)

37とはずがたり:2008/09/20(土) 13:11:06

古代の米収蔵施設か、中津で高床式礎石建物跡が出土
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/809/bu_809_091801.htm?from=nwlb

 中津市教委は12日、同市永添の長者屋敷遺跡(約1万3000平方メートル)で、8世紀後半〜9世紀前半に建てられたモミを長期保存する高床式の礎石建物跡(約85平方メートル)が出土したと発表した。奈良〜平安時代の役所「下毛郡衙(ぐんが)」に納められた米の収蔵施設「正倉(しょうそう)」跡とみられる。礎石を伴う郡衙の正倉跡は、九州では熊本県玉名市で一部が発見されているが、全容が明らかになったのは初めてという。

 同遺跡は、市教委の2000年度までの調査で、正倉とみられる平床式と高床式計11棟分の建物跡(各約80平方メートル)や須恵器、墨書土器、さらに大量の炭化米が出土。長者屋敷遺跡と命名され、一部が市史跡に指定された。

 郡衙の正倉跡の出土は県内で初めてで、市教委は07年度末から未確認だった遺跡北限部分を調査。新たに、高床式正倉跡2棟、北限を示す溝、約2メートル間隔に並んだ柵の跡、さらに建物の柱の下に敷く礎石(直径75〜1メートル50)14個を確認した。礎石を伴う正倉は、飢饉(ききん)などに備え、大量のモミなどを長期間保存するための強固な施設とされる。市教委は今回の結果を受け、国指定を目指して補足調査を進める。

 官衙遺跡に詳しい独立行政法人国立文化財機構「奈良文化財研究所」(奈良市)の山中敏史・文化遺産部長(60)は「郡衙施設の礎石建物は関東、東北地方にはあるが、九州ではほとんど発見されなかった。建築構造の移り変わりなどを研究する上で貴重な発見」と話している。
(2008年9月18日 読売新聞)

38曲学の徒:2008/09/20(土) 23:45:27
卑弥呼の墓発掘プロジェクトを計画しております。
ご支援ください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/keizibann/Project-H.html

39とはずがたり:2008/11/12(水) 09:01:44

烏頭中納言藤原安方朝臣で誰だっけ?

● 「善知鳥」について
http://www.densyu.co.jp/utoh.htm
ウトウ(善知鳥)
学名:Cerorhinca monocerata

● 善知鳥にまつわる伝説

もともとはアイヌ語で「突起」を意味する言葉のようだが“ 善知鳥 ”と書いて「うとう」と読むのは非常に難しい。

どうやらこれは当て字のようで、延喜の御代(約900年前)に大発生し、百姓達を苦しめたと言われている善智鳥(よしちどり)・悪智鳥(あしちどり)の話に由来するという説や、青森市民には馴染みの深い青森市安方にある「善知鳥神社」に関連した伝承が、“善知鳥”を「うとう」と読ませているようである。

烏頭中納言藤原安方朝臣という貴族が流罪となり、さすらい歩いて辿り着いた「外ヶ浜」なる地で亡くなった。その亡霊は見た事もない鳥となって海に群がり、磯にたくさん鳴いていたのを、その君の名をとってこの鳥を「うとう」と呼び、その霊を祭って「うとう大明神」と唱えたと言われている。

善知鳥といえば、『新古今和歌集』の編纂者としても有名な藤原定家が詠んだ和歌「陸奥の外の浜なる呼子鳥鳴くなる声はうたふやすかた」が有名。これは、善知鳥猟で雛を捕まえるために猟師が「うとう」と呼び、それに対し雛が「やすかた」と答えるという言い伝えからきている。

また、烏頭中納言安方の化身物語である能の謡曲「烏頭」も有名だが、浄瑠璃に登場する人物「善知鳥安方」は作品における創作上の人物とされながらも、そのモデルは「烏頭」同様、烏頭中納言藤原安方であるとする見方が有力であるようだ。

40とはずがたり:2008/11/30(日) 06:57:50

日本で皇位の簒奪に成功したのは継体でほぼ成功してたのに急死したのが鹿苑院法皇たる義満であったがと思うんだけど馬子もそうであったか。林太郎天皇ってのはこなれないけど。

10.蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹- (1997.6.8)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/taika.html

「蘇我氏自身が天皇家になる!!」。いや、「なった」と言う方が正確でしょう。その証拠に、例えば、

蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだ。
蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
聖徳太子・蘇我馬子らによって編纂された『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
等が挙げられます。まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門」・「帝」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処」すなわち「御所」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けていたと言う事なのです。

ここまで書いても、「いやいや、そんなバカな事がある筈がない!!」と思われる方もいるでしょう。そんな方は下の文章の「□」を文字で埋めてみて下さい。


□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)、林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)子孫等皆之を滅ぼす
これは、『上宮聖徳法王帝説』と呼ばれる史書の中の一文で、大化改新の記事ですが、「□」を埋められたでしょうか? まず、最初の「□□□」ですが、ここに蘇我入鹿の別名「林太郎」を、次に「□□」に「天皇」を入れてみると・・・どうでしょう。前述の「宮門」等と合わせても、辻褄が合う事にお気づきでしょう。「これでも信じられない」と言う方、考えてみて下さい。なぜ、「□」の部分だけが欠損していたのかを。これが自然に「虫食い」と言うならば、あまりにも偶然すぎるとは思えないでしょうか? もし、故意に欠損させたならば、なぜ、「天皇」の名を欠損させたのか? 「林太郎大臣」と書かれていたのならば、なぜわざわざ「大臣」の部分を欠損させたのか? 理由に苦しみます。しかし、これが「林太郎天皇」と記されていたとするなら、すべての謎は解けるのです。

最後に一つ、蘇我入鹿が「天皇」又は「天皇に準ずる扱い」を得ることが出来た最大の理由について。それは、蘇我入鹿が、当時の「天皇」・皇極女帝の愛人であり、最大のパトロンだった事です。そして、中大兄皇子ら一派が最も恐れた事、言うなれば、大化改新の「真の原因」は、すなわち、「林太郎天皇」蘇我入鹿と皇極女帝との間に「皇子」が誕生し、その「皇子」が、中大兄皇子ら「天皇家の正統なプリンス」を差し置いて、後継天皇になると言う「悪夢」だったのではないでしょうか?

41とはずがたり:2008/12/24(水) 11:42:44

怠慢だなぁ・・担当者は懲戒免職ものではないかヽ(`Д´)ノ国の宝のなんたるかを解っていない。ネトウヨや右翼が軽々しく口にする国益なんて物は殆ど内容のない空虚な代物に過ぎないと思うがこういう文化的価値に対しては左右から一定のコンセンサスが得られるのではないか?
>川野辺氏は「損傷後すぐに担当者が捜していれば、破片を見逃すことはなかっただろう」と話した。

高松塚古墳の飛鳥美人「損傷の修理は不可能」
http://www.asahi.com/national/update/1210/OSK200812100046.html?ref=goo
2008年12月10日19時31分

 奈良県明日香村、高松塚古墳(7世紀末〜8世紀初め、特別史跡)の「飛鳥美人」と呼ばれる極彩色壁画(国宝)が損傷した問題で、壁画修理を指揮する東京文化財研究所保存修復科学センターの川野辺渉・副センター長が10日会見した。剥落(はくらく)部分は見つからず、「損傷個所の修理は不可能」と述べた。

 損傷したのは、古墳石室の東壁に描かれていた女子群像画で、壁画の修理中に機材の先端が緑色の衣装部分に触れ、長さ約3ミリ、幅約1ミリにわたり剥落した。損傷個所から約40センチ離れた壁面上で、剥落部とほぼ同じ大きさの破片が9日に見つかったが、緑色の顔料がなく、以前にはがれ落ちたものとわかった。周囲の床なども調べたが何も見つからなかったという。

 文化庁が損傷について発表したのは事故発生から2週間後だった。同庁から川野辺氏への連絡も公表前日だったという。川野辺氏は「損傷後すぐに担当者が捜していれば、破片を見逃すことはなかっただろう」と話した。損傷個所の状態は安定しており、これ以上傷む恐れはないという。

42とはずがたり:2009/01/21(水) 12:56:29

いやぁ凄いですね〜。

木簡:国内最古 地名示す「字」 岩手で発見
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090121k0000e040026000c.html

道上遺跡から出土した木簡の一部。上から「字垂楊池」と記されている=岩手県埋蔵文化財センター提供

 地名を示す「字(あざ)」を記した国内最古の木簡が岩手県奥州市前沢区の道上(どうのうえ)遺跡で見つかった。20日発表した県埋蔵文化財センターによると、木簡は平安時代中期の10世紀のものとみられる。「字」は、古代の土地制度である条里制から生まれた土地の区画を表すもので、これまでに確認されたのは紙への記述で近畿地方が大半。この時代に東北でも課税などの土地支配が行われていた可能性があるという。

 木簡は長さ約46センチ、直径約4センチの棒状。墨で縦書きに6列、「禁制田参段之事 字垂楊池」(3段=30アール=の田に関する禁止事項。田は字垂楊<たれやなぎ>池の)などと記されていた。文面から、地元の農民とみられる「公子廣守丸(きみこのひろもりまろ)」が平安京の貴族に寄進した田んぼだとして、部外者が勝手に耕すことを禁じ、掲示していたとみられる。

 禁止事項を記した「禁制木簡」は、兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)遺跡で出土した2点だけで3例目。【山口圭一】

43とはずがたり:2009/02/03(火) 12:26:52
いやぁ,凄いっすね〜。併し研究は地味で地道な作業ですぞ。

竪穴式住居:中学生が独力で造る 山梨・韮崎の自宅庭に
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090203k0000m040021000c.html?link_id=TT002

 山梨県韮崎市立韮崎東中2年、河西正悟君(14)が、考古学への情熱のあまり、自宅庭に独力で古代の竪穴式住居を造った。「あれはいったい何?」と来客を驚嘆させるなど、近所ではちょっとした「観光名所」となっている。

 着工は07年夏。本で調べたり、県立考古博物館職員らの助言を得て裏山で切り出した竹で骨組みを造り、近所で譲り受けた稲わらを載せた。一度は崩れたが、農家のおばあさんの助言でふき替えて改良。試行錯誤しながら休日に作業を続け、08年春に高さ約2.5メートル、直径約4メートルの住居が完成した。

 昨年10月には念願の一泊。自前の火おこし器で炭火をおこし、シイタケでだしを取る縄文時代のスープも作った。わらの上に寝転がり、火を見つめて古代へ思いをはせる。「気持ちが和みました」

 考古学熱に火がついたのは小学4年のとき。テレビで近所に遺跡があることを知った。本で調べるだけでは飽きたらず、考古博物館の体験講座で火おこし器や土器など、古代道具の作り方を身につけた。

 「勉強するほど新しい疑問がわく。将来は考古学者になりたい」。バスケットボール部に所属する普通の中学生だが、語り口は熱い。住居造りの経緯をまとめたリポートは今年1月、考古博物館のコンテストで最優秀賞に輝いた。

 次の目標は古代人の服を作って数週間、この住居で暮らすこと。「衣食住すべてで古代人の気分を味わってみたい」。公務員の父慶仁さん(46)は「興味をもったらとことん取り組む子です」と目を細めている。【小林悠太】

 【ことば】竪穴式住居 縄文時代から奈良時代にかけての日本人の一般的住居。地面を数十センチ掘り下げ、その上に屋根をかけた半地下式の家。円形、方形などがあり、直径または一辺5〜6メートルが平均的。

44名無しさん:2009/02/14(土) 01:26:28
仁徳天皇綾が気になる。
てゆーか、はよ発掘調査せえよ。

45とはずがたり:2009/02/14(土) 01:29:38
この正月にたまたま行ってきましたよ>大山古墳
同感です>はよ発掘調査せえよ

46とはずがたり:2009/02/20(金) 22:35:37

弥生ファッション意外とカラフル
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000902140003
2009年02月14日

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/kodai/k_img_render1.jpeg
シンポジウムのマスコットキャラクターは、復元の参考にもなる。ただし、冬なので裸に布をまとう姿にはならないかも

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衣装復元のもとになった妻木晩田遺跡出土の絵画土器片(模写図)。頭(中央の円)に大きな羽根飾りがつき、武器を持った姿と考えられている

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弥生時代の色を求め、自然の材料で染められた布と糸=奈良市の奈良文化財研究所

 ◆来月8日、鳥取でシンポ

 ◎専門家らが衣装を復元

 弥生人はどんな服を着ていたの? そしてその色は?――遺跡から出土した土器や「魏志倭人伝」などを参考に、考古学や染織の専門家らが「弥生ファッション」の再現を試みる。3月8日に鳥取県米子市で開かれるシンポジウムで、自然の材料を使って染め上げた布や糸は意外なほどカラフル。果たして、舞台に登場する男性モデルはどんな姿に変身するのでしょう。(編集委員・小滝ちひろ)

 シンポのテーマは「弥生時代の色彩世界〜妻木晩田(むきばんだ)の人々が愛した色」。弥生の大集落跡、妻木晩田遺跡(同県大山町)で出土した土器に描かれた人物が頭に羽根飾りを付けたり、手に盾や戈(か)(とび口風の武器)を持ったりしていると見られるのをもとに、弥生男性の服装を舞台上で復元する。

 3世紀の「倭人伝」には、倭王が中国・魏に「絳青(こうせい)けん」(赤や青の絹布)などを献上したとある。また、6世紀の梁で描かれた「職貢図」には、バンダナふうの布を頭に巻いて肩にショールをまとい、腰布を身につけた男性の「倭国使」が登場する。こうした歴史資料も参考に、奈良文化財研究所考古第三研究室長の深澤芳樹さん(考古学)や、布の染めを担当した京都の染織家・吉岡幸雄さんらがモデルへの着付けを進める。

 へアスタイルも、弥生時代の土偶をもとに考えた。頭のてっぺんがとんがった形で、現代ならサッカー選手ベッカムのようなモヒカンだ。

 昨年に大山で採取したアカネやツバキを使って染めた布は、現代の染料にも負けない鮮やかな発色。深澤さんは「様々な分野の専門家が、自然の材料を使った弥生人の知恵の復元に挑戦した。環境や美術に興味のある人や子どもたちにぜひみてほしい」と話している。

 シンポは3月8日午後0時半から、米子市末広町の米子コンベンションセンターで。観覧希望者は往復はがき(1枚で1人=住所、名前、電話番号を明記)で、〒689・3324 大山町妻木1115の4 妻木晩田遺跡事務所(0859・37・4000)へ。締め切りは27日(必着)。

47とはずがたり:2009/03/19(木) 02:10:10
縄文の4歳児?人骨-良好な保存状態【橿原】  (2009.3.18 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/090318/arc090318a.shtml

土器棺の中から見つかった幼児の頭蓋骨と四肢骨=17日、橿原市観音寺町

 橿原市観音寺町の京奈和自動車道御所区間建設予定地で、縄文時代晩期中ごろ(約3000年前)の土器棺の中から幼児の人骨が見つかり、県立橿原考古学研究所が17日、発表した。推定年齢は4歳前後で、再葬の可能性が高いという。年齢が特定できる良好な保存状態での出土例は全国的にも珍しい。

 大規模集落跡にあった土器棺墓計19基のうちの1基。口径、高さとも約40センチの深鉢を転用し、口を西に向けた斜めの状態で埋設されていた。

 内部に乳歯と生える前の永久歯十数本が残った最大幅約10センチの頭蓋(ずがい)骨のほか、長さ約12センチの大腿骨などを確認。永久歯の形成程度から4歳前後の幼児骨と分かった。

 棺の大きさや見つかった頭蓋骨と腰骨などの位置関係から、遺体を直接納めたのではなく、一次埋葬で白骨化した遺骨を納めた再葬と推定。頭と下あごの骨が繋がっており、完全に白骨化する前に埋葬したか、生前の姿と同じように納めたとも考えられるという…

48とはずがたり:2009/09/30(水) 03:26:31

12万年前、日本最古の石器=列島の人類史探る資料−島根
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2009092900710&j1

 島根県出雲市の砂原遺跡を調査している学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は29日、約12万年前の中期旧石器時代の地層から多数の石器が見つかったと発表した。日本最古とみられ、同調査団は「日本列島の人類史を探る貴重な資料になる」と評価している。
 これまで日本最古の可能性があるとされた石器は、岩手県の金取遺跡の9万−8万年前という。
 調査団によると、石器は長さ1.5−5センチ程度の玉髄や流紋岩などの石片計20点。出土した地層は約11万年前に降った火山灰層の下にあり、約12万5000年前以降にできたとみられる。
 石を割り、先をとがらせた尖頭(せんとう)スクレイパーが含まれ、石器は何かを切ったり、刺したりするのに使われた可能性があるという。
 海岸の地層調査をしていた成瀬敏郎兵庫教育大教授が8月上旬、うち一つを偶然発見。調査団が発足し、新たに石器とみられる多数の石片を見つけた。(2009/09/29-21:30)

49名無しさん:2009/09/30(水) 11:56:53
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090930-OYO1T00464.htm?from=top

「歴史の空白」埋めた…日本最古の石器


国内最古の石器が見つかった砂原遺跡の調査現場(29日、島根県出雲市で)=永井哲朗撮影 島根県出雲市の砂原遺跡で見つかった日本最古の石器は、約12万年前の中期旧石器時代に、人類が日本列島を闊歩(かっぽ)していたことを証明した。旧石器捏造(ねつぞう)事件による〈歴史の空白〉を埋め、失われた先史考古学への信頼を取り戻す契機となる成果に、研究者から期待や喜びの声が上がった。〈本文記事1面〉


 29日、島根県庁で開かれた記者会見。今回の調査の信頼性を問われて、調査団長の松藤和人・同志社大教授は、「見つかった地層と、石器に付いていた酸化鉄を照合し、一致した」と石器が約12万年前の地層から出土したことを裏付ける証拠を強調。さらに、年代の指標となる火山灰を詳細に分析するとともに、1ミリ単位で発掘をしたことなど、捏造事件を受けて、慎重な調査を進めたことを説明した。

 岩宿遺跡(群馬県みどり市)などがある東日本に比べ、西日本は旧石器時代の遺跡が少なく、島根県はあまり注目されてこなかった地域。松藤教授は「研究者にとって驚きだろうが、ほかの地域でも見つかるはずという希望になる」と語る。

 今回の成果について、日本考古学協会が実施した捏造事件の調査に加わり、今回の発掘現場も見学した白石浩之・愛知学院大教授(先史考古学)は「捏造事件で前・中期旧石器時代の遺跡は消えたが、今回は地質学的にも間違いないと思われる。これを機に、次々と遺跡が見つかる可能性もある」と期待する。

 一方で慎重意見も。稲田孝司・岡山大名誉教授(考古学)は「石が人工物かどうか、慎重に判断する必要がある。今後も調査を重ねるべきだ」と話した。

(2009年9月30日 読売新聞)

50とはずがたり:2009/10/20(火) 16:50:13

4道県、縄文遺跡群登録へ連携確認 推進本部が初会合
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20091020c

 「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の世界文化遺産登録を目指している本県と北海道、青森、岩手の4道県は19日、盛岡市のホテル東日本盛岡で登録推進本部の第1回会合を開いた。会合では早期の登録実現に向け、4道県が情報を共有するなど連携を一層強化していくことを確認した。

 4道県の知事や委員らは、縄文をイメージした衣装で会合に臨んだ。本部長を務める三村申吾・青森県知事は「日本人の成り立ちと文化の歴史を伝える縄文遺跡群は、未来に残すべき人類共通の財産。早期登録を目指し、準備を進めていきたい」とあいさつした。

 本年度の活動報告に続き、世界遺産登録の目標年度について協議。2012年度までに普遍的価値と保護体制に関する検討を行い、推薦書案を作成。翌13年度には国へ提出するとの方針を了承した。
(2009/10/20 09:12 更新)

51とはずがたり:2009/10/20(火) 17:14:44

縄文の4歳児?人骨-良好な保存状態【橿原】  (2009.3.18 奈良新聞)
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/090318/arc090318a.shtml

土器棺の中から見つかった幼児の頭蓋骨と四肢骨=17日、橿原市観音寺町

 橿原市観音寺町の京奈和自動車道御所区間建設予定地で、縄文時代晩期中ごろ(約3000年前)の土器棺の中から幼児の人骨が見つかり、県立橿原考古学研究所が17日、発表した。推定年齢は4歳前後で、再葬の可能性が高いという。年齢が特定できる良好な保存状態での出土例は全国的にも珍しい。

 大規模集落跡にあった土器棺墓計19基のうちの1基。口径、高さとも約40センチの深鉢を転用し、口を西に向けた斜めの状態で埋設されていた。

 内部に乳歯と生える前の永久歯十数本が残った最大幅約10センチの頭蓋(ずがい)骨のほか、長さ約12センチの大腿骨などを確認。永久歯の形成程度から4歳前後の幼児骨と分かった。

 棺の大きさや見つかった頭蓋骨と腰骨などの位置関係から、遺体を直接納めたのではなく、一次埋葬で白骨化した遺骨を納めた再葬と推定。頭と下あごの骨が繋がっており、完全に白骨化する前に埋葬したか、生前の姿と同じように納めたとも考えられるという…

52とはずがたり:2009/11/01(日) 17:43:42

石器:国内最古か 12万年前の地層から 出雲・砂原遺跡
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/09/29/20090930k0000m040038000c.html

調査団が日本最古の石器とみられる石片と発表した出土品の一部。右端は刃に加工して先をとがらせた尖頭スクレイパーとみられる=島根県庁で2009年9月29日、三村政司撮影

 島根県出雲市多伎(たき)町の砂原遺跡で発掘調査していた同志社大の松藤和人教授(旧石器考古学)らの調査団は29日、約12万年前の石器とみられる石片を発見したと発表した。全国で前・中期旧石器時代(数百万年前〜3万5000年前)の可能性のある石器はごくわずかしか発見されておらず、石器とすれば国内最古となる。調査団は「日本列島の人類史の起源を探るうえで貴重な資料」としている。専門家の中には、石器とすることに慎重な意見があり、調査団は範囲を広げて調査を進める。【細谷拓海】

 調査団によると、兵庫教育大名誉教授で出雲市の自然地理学者、成瀬敏郎さん(地形学)が先月8日、発掘現場付近で玉髄(ぎょくずい)製の石片(長さ約5センチ)を発見。松藤教授が鑑定したところ、断面が鋭く人工的にはがされた可能性が高いことが分かった。

 予備調査の後、縦4メートル、横7メートルの区画を発掘。成瀬さんが石片を発見したのと同じ地層(深さ約1.8メートル)から、尖頭(せんとう)スクレイパー(刃に加工して先をとがらせた石器)1点と、石を割ってできる剥片(はくへん)と石核とみられる石片を合わせ計20点(1.5センチ〜5センチ)を発掘した。

 出土層の上に約11万年前の三瓶木次(さんべきすき)火山灰層があり、下の地層は約12万7000〜12万8000年前に形成されていることから、出土層の年代を約12万年前と特定した。
 ◇可能性は半々

 ▽捏造(ねつぞう)問題発覚後に設立された日本旧石器学会の初代会長で、現地で実物を見た稲田孝司・岡山大名誉教授(考古学)の話 最初の玉髄製のものは、非常に鋭利でいい状態だが、石器1点ではなかなか判断しづらく、石器か自然石かの可能性は半々だ。誰が見ても石器と分かるようなものが出てくることが必要だが、今回はそこまでは確認できない。調査そのものは自然科学、考古学が協力しており信頼できる。石器であれば今のところ国内最古となるが、詳しい報告を待って慎重に検討していく必要がある。

毎日新聞 2009年9月29日 19時19分(最終更新 9月30日 0時23分)

53とはずがたり:2009/11/01(日) 17:43:57

薬師寺:東院堂、当初は南向き 遺構発見 江戸文献裏付け
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091003k0000m040120000c.html

創建当初の「東院堂」の基壇跡では、外装に使われた凝灰岩の石が見つかった=奈良市西ノ京町の薬師寺で2009年10月1日、花澤茂人撮影

 奈良市西ノ京町の薬師寺で、中心伽藍(がらん)の東側にあった別院「東院」の奈良時代の遺構が見つかった。2日発表した奈良文化財研究所によると、現在は西向きの東院の中心建物「東院堂」(国宝)が、当初は南向きだったことが分かり、江戸時代の文献の記述が裏付けられた。不明な点が多い東院の創建当初の姿を解明する成果としている。

 文献によると、東院は奈良時代に吉備内親王が母・元明天皇のために建立、東院堂は鎌倉時代に南向きで再建された後、江戸時代の1733年に水はけのため西向きに建て替えられたとされる。

 境内の防災施設設置に伴い、8月から東院堂の周辺約110平方メートルを発掘調査。地表面を掘り込んだ後に、土を層状に突き固める「版築(はんちく)」という工法で強固に積み上げられた基壇跡が見つかった。南端の場所からは基壇を外装していた凝灰岩の石も見つかった。

 基壇上の柱穴跡は、現在の東院堂を南向きにすると柱の位置が一致した。建物は現在とほぼ同じ東西24.3メートル、南北11.8メートル、基壇は現在より一回り小さい東西28.1メートル、南北15.4メートルと推定され、地表面を掘り込んだ区域が南に広がり、「細殿」が並んで建っていたこともうかがえる。

 現場が狭いため、現地説明会は実施しない。【花澤茂人】

毎日新聞 2009年10月2日 22時11分(最終更新 10月2日 22時23分)

54とはずがたり:2009/11/01(日) 17:44:14

桜井茶臼山古墳:石室全面に赤色顔料「水銀朱」 奈良
http://mainichi.jp/kansai/news/20091023k0000m040039000c.html
一面に水銀朱が塗られた桜井茶臼山古墳の石室内と中央に横たわる木棺=奈良県桜井市外山で2009年9月24日、貝塚太一・代表撮影

 初期ヤマト政権の大王墓の可能性が高い奈良県桜井市の前方後円墳、桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀初め)の石室内に、古代中国で不老長寿の薬とされた赤色顔料「水銀朱」が全面に塗られていたことが分かった。22日発表した県立橿原考古学研究所は、水銀朱の使用量が国内の古墳で最大となる約200キロと推定しており、荘厳な葬送儀礼が行われたとみられる。

 石室内の調査は1949年以来、60年ぶり。橿考研が今年8月から再調査していた。

 石室は、板状の石を垂直に積んで壁を作り、その上に大型の石(最大1.5トン)を12枚乗せて天井にした。内部は全長6.75メートル、幅1.27メートル、高さ1.71メートル。石は見えるだけで1000個以上あり、すべて水銀朱が塗られていた。

 中に納められていた木棺は底の部分だけが残っていた。傷みが激しく、保存処理のために取り出された。

 現地見学会は29〜31日の午前10時〜午後3時。JR・近鉄桜井駅の東約1キロ。【高島博之】

60年ぶりに石室調査が行われた桜井茶臼山古墳=奈良県桜井市で2009年10月22日午後2時12分、本社ヘリから小関勉撮影

毎日新聞 2009年10月22日 19時36分(最終更新 10月22日 22時32分)

55とはずがたり:2009/11/01(日) 17:44:25

檜前遺跡群:大壁建物を確認 7世紀前半、東漢氏住居跡か−−明日香 /奈良
http://mainichi.jp/area/nara/archive/news/2009/11/01/20091101ddlk29040314000c.html

 明日香村檜前(ひのくま)などにまたがる檜前遺跡群で、渡来系氏族の「東漢氏(やまとあやのうじ)」の住居跡とみられる7世紀前半の建物跡が見つかった。調査した村教委によると、渡来系の建築技術である「大壁建物」とみられ、東漢氏の本拠地とされる同遺跡群では初めて確認された。

 国営飛鳥歴史公園の整備などに伴い、計約1200平方メートルを調査した。見つかった建物は南北約10メートル、東西7メートル以上の方形。「大壁建物」は掘った溝に柱を立て並べ、それを土壁で塗り込める技法で造られる。5世紀後半に朝鮮半島の百済地域に現れ、日本でも6世紀後半以降、大津市周辺を中心に、御所市や高取町などで見つかっている。

 さらに、4面のすべてにひさしがつく可能性がある7世紀後半の掘立柱(ほったてばしら)建物跡なども確認。住居が「渡来」系の大壁建物から「国産」の掘立柱建物へと移り変わっていく様子がうかがえる。
 ◇3日、現地説明会

 現地見学会は3日午前10時〜午後3時。近くに駐車スペースはない。【山成孝治】

毎日新聞 2009年11月1日 地方版

56とはずがたり:2009/11/11(水) 23:01:04
九州説の俺の旗色悪しか!?

奈良・纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か 
http://mainichi.jp/kansai/news/20091111k0000m040025000c.html

纒向遺跡で見つかった大型建物跡(右端)と、3月までに確認された3棟の建物跡が一直線に並ぶ=奈良県桜井市で2009年11月5日午後2時4分、本社ヘリから山本晋撮影

 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。

 78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。

 直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。

 市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。

 推定床面積は約238平方メートル。弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落で、邪馬台国九州説の候補地である吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。

 また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。

 現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。雨天中止。JR巻向駅の北100メートル。駐車場はない。【高島博之】

 石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話 邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大きさだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。

 【ことば】纒向遺跡

 奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロに、最古級の前方後円墳とされる纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とされる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。

毎日新聞 2009年11月10日 18時34分(最終更新 11月11日 17時20分)

57とはずがたり:2009/11/11(水) 23:01:18

纒向遺跡:大型建物跡 「卑弥呼の里」きっと 期待ふくらむ地元−−桜井 /奈良
 ◇来年1300年祭「最高の発掘成果を」
http://mainichi.jp/area/nara/news/20091111ddlk29040663000c.html

 邪馬台国の最有力候補地とされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、見つかった大型建物跡。同市教委が今年2月から、中枢部とみられる辻地区に絞って発掘調査してきた。卑弥呼(248年ごろ没)の宮殿の可能性も指摘される今回の成果に、地元では「邪馬台国の所在地」への期待が高まる。同市はふるさと納税で集まった寄付金などを基に、さらに発掘調査を進める方針だ。【稲田敏雄、高島博之】

 ■専門家も驚き

 古墳時代を研究する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は今年9月から、発掘現場に3度足を運んだ。「大型建物にも驚いたが、建物群が東西方向に軸をそろえ、左右対称になっているような配置は3世紀では見つかっていなかった。大変意義がある。これが邪馬台国の中心的な施設だった可能性は十分にある」と話す。

 金関恕・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「難しい調査だったと思うが、よく見つけ出した。粘りに感服する」と評価した。さらに「私は邪馬台国はこの辺りだと思っているから、(今後の調査に)非常に強い期待を寄せている」と述べた。

 ■発掘現場

 発掘現場はJR巻向駅北100メートルで、周辺は住宅、商店などが建ち並ぶ。今回の成果に、住民の間でも古代史へのロマンが広がった。

 発掘現場の土地所有者で農業の川口由一さん(70)は「3世紀前半の建物と聞いていたが、やはり卑弥呼の時代の建物跡だったか」と感無量。現場は昔、地元の旧庄屋の所有だったが、終戦直後の農地開放で川口さん方の所有となった。その後、自然のままで保存してきたのが、遺跡を守る結果となった。

 発掘現場がある辻を含む12地区を受け持つ纒向支部長、豊田穣一さん(67)も「邪馬台国の所在地は九州・吉野ケ里説より畿内説を確信している。今後、一層の調査、究明を進めてほしい」と喜びを語った。

 ■桜井市

 谷奥昭弘・同市長はこの日、発掘現場に詰め掛けた報道陣約50人に、開口一番「纒向遺跡こそ邪馬台国と信じてきた。さらに調査を進めて卑弥呼の里を解明したい」と熱っぽく語りかけた。

 かつて、同市は「木材とそうめんの町」と言われたが、いずれも低迷続き。その中で04年、古代文化遺産と古社寺などを観光資源にした「観光立市」をスタートさせた。

 07年11月、無投票当選した谷奥市長は「邪馬台国の最有力候補地・纒向遺跡は飛鳥よりも古い。調査、究明して必ず世界遺産にしたい」と公約に掲げた。

 08年8月、その調査研究・保存事業などに活用するため、ふるさと納税を活用した「卑弥呼の里・桜井ふるさと寄付金」制度を創設。寄付は10月末現在、計247件、総額1638万9106円。うち同遺跡事業には、161件、757万6000円が寄せられた。

 同遺跡の調査事業は166次に及ぶが、ようやく中枢部の発掘がスタートしたばかり。今後、長期間の調査が予測される。谷奥市長は「来年の平城遷都1300年祭にふさわしく、纒向遺跡発掘調査で最高の成果を挙げたい」と述べた。

毎日新聞 2009年11月11日 地方版

58名無しさん:2009/11/14(土) 13:52:22
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091112/acd0911121116007-n1.htm
西部警察でおなじみ俳優・苅谷さん「卑弥呼の宮殿」予言が的中 (1/2ページ)
2009.11.12 11:10

このニュースのトピックス:歴史・考古学

大型建物跡(後方)の発掘に参加した俳優でアマチュア考古学者の苅谷俊介さん=10日、奈良県桜井市の纒向遺跡(川西健士郎撮影) 倭国女王・卑弥呼の宮殿の可能性が指摘される大型建物跡(3世紀前半)が発見された奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で14、15の両日行われる現地説明会に、俳優でアマチュア考古学者の苅谷俊介さん(62)が、案内役として登場する。苅谷さんはロケの合間をぬって十数年前から纒向遺跡の発掘調査に参加。10年前に出版した論考書では、東西を中心軸とする卑弥呼の宮殿が、今回の調査地に埋もれていると予想、ピタリ的中させた。

 俳優になる前から考古学が好きだった苅谷さん。約30年前、人気刑事ドラマ「西部警察」のロケの帰りに先輩の石原裕次郎さん宅の建て替え工事に伴う発掘調査を見て、考古学熱が再燃。ついには裕次郎さん率いる石原軍団を辞め、当時はまだ無名だった纒向遺跡などの発掘現場に通い詰めた。

 10年前に出版した「まほろばの歌がきこえる」(エイチアンドアイ)で苅谷さんは、国内最初の前方後円墳とされる纒向石塚古墳の後円部が太陽祭祀(さいし)の“祭壇”と推定。そこから東へ延びるラインを中心軸として予想した宮殿域は、桜井市教委が今回発表した範囲と、位置、大きさともほぼ一致。飛鳥時代(7世紀)以降に登場する宮殿は南北軸が基本だが、苅谷さんの持論は正解だった。

 今回の大型建物跡の一部も発掘。「柱の跡がどこまでも続いてドキドキした。百パーセント卑弥呼の宮殿、大感激」と余韻が覚めない様子。現地説明会では桜井市教委の腕章を巻き、考古学ファンを迎える。

59荷主研究者:2009/12/14(月) 23:42:07

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002577345.shtml
2009/12/12 16:21 神戸新聞
「駅家」研究 播磨に脚光 相次ぐ発掘で成果集積

整理作業が進む賀古駅家の瓦や土器=明石市魚住町、兵庫県立考古博物館魚住分館

賀古駅家駅館院の門を復元した合成写真(兵庫県立考古博物館提供)

 約1300年前の古代に、都と地方を結んでいた官道。現代でいえば国道に相当する道に、位の高い人専用の“サービスエリア”として設けられたのが「駅家(うまや)」だ。実像は謎に包まれているが、兵庫県の播磨地域が全容解明に向けた研究の最前線として脚光を浴びている。国史跡野磨(やま)駅家跡(上郡町)などの発掘調査の蓄積に加え、県立考古博物館(播磨町)が調査研究を展開しているためだ。(文化生活部・仲井雅史)

 赤色の柱が白壁に映える。都の建造物を思わせる正殿と脇殿の屋根は瓦がふかれ、築地塀で厳重に外部と区画されている。最新研究が描く駅家の中心施設「駅館院(えきかんいん)」の姿だ。

 駅館院は敷地約6400平方メートルでほぼ方形▽格式の高い八脚門を備える▽(通常は南に構える正門を)道に近い側に設置する柔軟な設計-などが特徴という。具体的な姿は、1982年からのたつの市「小犬丸遺跡(布勢駅家)」、2002年からの「落地飯坂(おろちいいざか)遺跡(野磨駅家)」の発掘調査で明らかになった。

 駅家は7〜8世紀に始まった官道整備に伴って設置された。役人や外交使節の馬の乗り継ぎや宿泊に使われ、迎賓館的な機能を持っていたとみられる。全国約400カ所にあったとされるが、史料が極めて少なく、地名と地形の検討、古瓦の採集による推定にとどまり、位置確定に至る発掘例はわずか。全容がほぼ確認された野磨は一躍、“教科書”的な存在となった。

 布勢、野磨など、播磨には山陽道に伴う駅が9カ所あったとされる。残る7駅の謎に挑むべく、県立考古博物館が今年3月〜7月、賀古(かこ)駅家跡とみられる加古川市の古大内(ふるおうち)遺跡を発掘。10月には邑美(おうみ)駅家跡とみられる明石市の長坂寺遺跡で地中の遺跡を調べるレーダー探査を行った。

 賀古は平安時代、全国最多の馬40頭を置き、邑美は文献に名前が載っていない幻の駅家だ。古大内では、駅館院への進入路と門を支える石製の唐居敷(からいじき)を発見。長坂寺はデータの解析が進む。

 「比較資料が増えることで、駅家の共通設計プランである『定様(ていよう)』を明らかにできる」と同館の中村弘学芸員。

 一連の成果は、同博物館ホームページの「うまやレポート」で随時掲載される。播磨を舞台に、古代史の謎が少しずつ明らかになりつつある。

60とはずがたり:2010/01/30(土) 14:04:09

西大寺にお参りしたら孝謙天皇の歌の石碑があって設置者が道鏡を守る会↓となっていた。
http://www.google.co.jp/search?q=%E9%81%93%E9%8F%A1%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E4%BC%9A&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&client=firefox-a

西大寺は称徳(孝謙重祚)天皇が道鏡のために造営したのか。
で,上のリンク先を見ると配流先の下野で善政を敷いた伝説もあるようだし,とは総研としても太政大臣禅師から法王に上り詰めた道鏡を積極的に評価したいところですね〜♪

http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2008/2008_0406_nara_B/2008_0406_02.html
西大寺は、東大寺に対抗して称徳天皇+道鏡政権が造営した大伽藍である。最盛期の興福寺を遥かにしのぐ48haの敷地をもち、建物の数は110棟以上、東西2基の五重塔を擁していた。称徳天皇としては父=聖武天皇の東大寺に匹敵する大寺を自らの治世でも残したい意向があったようで、造営中幾度と無く行幸しては工事の進捗を確認したらしい。(さすがに大仏は作らなかったようだが… ^^;)

http://odekake.huuryuu.com/saidaiji.html
東の東大寺に対する西の西大寺。東大寺を建てた聖武天皇の一人娘、称徳(孝謙)天皇によって西大寺は建てられました。

61とはずがたり:2010/01/30(土) 14:06:34

日本三大悪人・弓削道鏡の汚名を晴らすサイト
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/ishii/doukyou.htm

62とはずがたり:2010/02/08(月) 18:43:58
なぜか真言宗の寺から…浄土宗ゆかりの重文仏像帰還
http://www.asahi.com/culture/update/0201/OSK201002010131.html
2010年2月7日12時37分

 浄土宗の宗祖・法然の一周忌供養に作られながら、真言宗の寺に安置されていた国の重要文化財の「木造阿弥陀如来立像」が、浄土宗に1億8千万円で譲渡され、浄土宗系の佛教大学宗教文化ミュージアム(京都市右京区)で報道陣に公開された。法然の800年大遠忌(だいおんき)(2011年)を前に、譲渡話がまとまった。なぜ他宗派の寺にあったかは不明だが、浄土宗関係者は「やっとお帰りいただいた」と喜んでいる。

 仏像は高さ98.6センチ。衣の彫法などから、鎌倉時代の仏師・快慶の弟子が作ったと推定されるという。長く高野山真言宗の玉桂(ぎょっけい)寺(滋賀県甲賀市)に安置されていた。1979年の解体調査で、法然の一周忌を供養するために弟子の源智(げんち)が造立を呼びかけたことを示す1212(建暦2)年12月24日付の願文が胎内から見つかった。

 浄土宗は「法然上人の思想をひもとく上で意義深い」として、玉桂寺と協議。今年1月18日、有償譲渡してもらう契約を結んだ。

 仏像は当面、同ミュージアムで保管・研究され、2011年3月に京都国立博物館で開かれる「法然展」に出展される。浄土宗の里見法雄宗務総長は「安置施設を造り、いずれは礼拝仏として一般公開したい」と話している。(上田明香)

63荷主研究者:2010/02/24(水) 22:50:40

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100218/CK2010021802000176.html
2010年2月18日 中日新聞
大和と共通する造り方の稲荷山古墳 浜松市文化財保護審が史跡指定へ

 浜松市文化財保護審議会(会長・向坂鋼二県考古学会長)は17日、5世紀前半(古墳時代中期前半)の稲荷山古墳(浜北区内野)を市指定史跡にすべきだと決めた。教育委員会の審議を経て3月中に正式指定される。

 一昨年の試掘調査では、二段上の墳丘が確認されている。さらに、人工造成の二段目に並んだ「ふき石」は、関西の大型前方後円墳と同様の工法を用いたことが判明。大和とのかかわりを示す構造は、市内に残る古墳の中でも珍しいという。

 稲荷山古墳は直径37メートル、高さ4・3メートルの円墳。三方原台地東縁にある内野古墳群の一つに位置づけられている。南側近くの赤門上古墳(県指定史跡)の埋葬者に続き、天竜川平野を治めた首長をまつったとされる。

 円墳としては市内で3番目の大きさ。墳頂部は盗掘などで壊された形跡がなく、埋葬品が眠る可能性もある。ふき石などは調査後、埋め戻してある。

 市は「古墳時代の歴史を語るには欠くことができない有力古墳」と審議会に諮った。指定後は現地で見学会を開くほか、学校での歴史教材としての活用を期待している。

(後藤隆行)

64荷主研究者:2010/02/28(日) 16:29:16

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100223/CK2010022302000020.html
2010年2月23日 中日新聞
土偶形容器を復元 県内初、弥生後期の全体像

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010022302100074_size0.jpg
発掘された破片をつなぎ合わせ、復元された土偶形容器=長野市の県埋蔵文化財センターで

 佐久市の西一里塚遺跡群から弥生時代後期の土偶形容器の破片が出土し、県埋蔵文化財センター(長野市)はそれらをつなぎ合わせ、全体像を復元したことを明らかにした。同時期の土偶形容器の出土は県内初で、全体像が判明した例は全国的にも珍しいという。

 土偶形容器は頭部と胴体、左腕の8つの破片を基に復元した。全長約28センチで、胴体部分最大直径は約15センチ。破片は、同遺跡群の50センチから1・5メートルの深さから出土した。

 顔は鼻が高く、やや上を向いているほか、左腕は何かを抱えるように伸ばしているのが特徴だ。

 同センターによると、土偶形容器は弥生時代前期に多く見られ、全国では40ほどの出土例がある。このうち、県内は飯田市や松本市などで20数例あり、遺骨を入れて埋葬する器と考えられているが、弥生時代後期は腹部付近に穴があり、用途が変化していた可能性もあるとされる。

 同遺跡群は2004〜06年、中部横断自動車道建設を前に発掘調査が行われた。04年に頭部、05年に左腕、06年に胴体部分がそれぞれ見つかり、今年1月から復元作業に入っていた。

 センターの桜井秀雄調査研究員は「顔の表情が弥生時代前期のものとは異なり、当時の表現方法を知る良い史料になる」と指摘。県内は全国的にも土偶形容器の出土例が多いことから「前・中期から後期にかけての形や使い方の変遷を調べ、性格をつかんでいきたい」と話している。

 一般公開は3月13日から5月9日まで、県立歴史館(千曲市)で行う。

 (柚木まり)

65荷主研究者:2010/02/28(日) 16:30:27
邪馬台国近江説!?

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100223/CK2010022302000008.html
2010年2月23日 中日新聞
「邪馬台国近江説」が同時出版 守山と東京の2人、偶然一致に驚き

(左)「銅鐸こそ秘密を解き明かすものでは」と話す沢井さん(右)「地元の人に伊勢遺跡を知ってもらいたい」と話す後藤さん=いずれも大津市で

 守山市伊勢町の「伊勢遺跡」と、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国(やまたいこく)とを関連づける「邪馬台国近江説」と題した書籍が2冊、相次いで刊行された。守山市と東京の著者が全く同時期に書き上げた本で、2人とも「近江説が話題となれば」と同時出版に驚いている。

 1冊は、守山市伊勢町の地元史家、沢井良介さん(64)が書いた「邪馬台国近江説 古代近江の点と線」(幻冬舎ルネッサンス、1300円)。自費出版で1000部印刷した。

 沢井さんは近畿、東海地方などから出土する銅鐸(どうたく)の分布や形状の変遷に着目した。卑弥呼は伊勢遺跡のある近江南部で擁立されて大和へ基盤を移したが、その後大和政権に吸収されたと推測。大和政権時代に湖東地方で勢力を持った息長(おきなが)氏を邪馬台国系の勢力と考えた。

 もう1冊は、東京都のフリー編集者、後藤聡一さん(52)の「邪馬台国近江説 纒向遺跡『箸墓=卑弥呼の墓』説への疑問」(サンライズ出版、1200円)。

 後藤さんは奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を邪馬台国の有力候補地と見なす近年の学界の風潮に疑問を投げ掛ける。弥生時代の国内で最大級の大きさを持つ伊勢遺跡は邪馬台国の卑弥呼が祭祀(さいし)をつかさどる神域だったと結論づけ、後に大和政権に滅ぼされたと考えている。

 伊勢遺跡は1世紀から2世紀にかけて栄えた集落遺跡。30ヘクタールの面積があり、同時代の国内で最大級の規模を持つ。邪馬台国の時代よりも早い時代に栄えたと考えられているが、2人とも著作の中で独自の説を唱えている。

 2001年に伊勢遺跡を知って以来、近江説を練り上げてきた後藤さんは「考古学を専門にしているわけでないのでロマンの部分はある」と話しながらも「現在は開発で遺跡を残せないかもしれない状況。地元の人に伊勢遺跡のことを知ってほしかった」と執筆の理由を話す。

 同時期に同名の本が出版されるのは全くの偶然。沢井さんは「今まで一度も取り上げられなかった説が2つの本になった。相乗効果があるのでは」と盛り上がりを期待している。

 (小西数紀)

66荷主研究者:2010/03/14(日) 18:31:14

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100310/CK2010031002000023.html
2010年3月10日 中日新聞
太陽暦に近い精度か 下呂の「金山巨石群」

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010031002100057_size0.jpg
巨石内部に差し込む太陽光=下呂市金山町で(金山巨石群調査資料室提供)

 縄文人が暦を知る“天文台”だった説がある下呂市金山町の「金山巨石群」を調査する同市の調査資料室は9日、巨石内に差し込む光のデータ蓄積により、巨石群は1年間の周期とうるう年を観測することができ、太陽暦(グレゴリオ暦)に近い精度がある、とする調査結果を発表した。

 調査は県史跡「岩屋岩蔭遺跡」などが点在する一連の巨石群で実施。巨石内に残る長さ55センチ「測定石」に、巨石のすき間から差し込む光が当たる日を、2001年から9年間観測した。結果、測定石に光が当たり始める日と当たらなくなる日が毎年同じで、4年に1回だけ1日ずれることが分かった。

 調査室によると、石を照らす光は毎年ほぼ同じ位置に戻ってくる。しかし、正確な1年の長さ(1太陽年)は365日と約4分の1日。光が当たる位置は毎年、4分の1日分(約1センチ)ずつずれる。そのため4年に1回、当たり始める日と当たらなくなる日が1日だけずれるという。

 小林由来代表らは「自然の太陽を観測して、暦を知る仕組みが遺跡には存在したといえる。巨石内部を発掘調査することにより、日にちを数えたり、刻んだりした痕跡が出てくれば」と話している。

 また、日本歴学会の後藤晶男副会長は「古代日本には暦がなかったという通説が、巨石群の研究で認められ始めている。暦は果実がいつ実るのかなど、季節を知る上で大切だったと思う」と話した。

 研究成果は報告書にまとめて、考古天文学に詳しい米国の考古天文学センターのクライブ・ラッグルス会長に送る予定。

 (林康雄)

67チバQ:2010/09/27(月) 00:03:49
半年振りにサルベージ
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092601000366.html
国内にマニ教「宇宙図」 世界初、京大教授ら確認
 3世紀に誕生し、善悪二元論を教義として世界的な宗教に発展しながらも滅びたマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が国内に存在することが26日までに、京都大の吉田豊教授(文献言語学)らの調査で分かった。「10層の天と8層の大地からなる」というマニ教の宇宙観の全体像が、ほぼ完全な形で確認されたのは世界で初めて。

 マニ教は布教に教典のほか絵図も使っていたとされるが、絵図は散逸。宇宙観は教えの根幹につながるもので、今回の発見を公表した国際マニ教学会で「画期的」と高い評価を受けた。吉田教授は「不明な点が多いマニ教の解明につながる」と話している。

 吉田教授が「宇宙図」と呼ぶこの絵画は、現在国内で個人が所蔵している。縦137・1センチ、横56・6センチで、絹布に彩色で描かれている。仏教絵画との比較などから、中国の元(1271〜1368年)、またはその前後に、現在の浙江、福建両省など江南地方の絵師が制作したとみられるという。日本に渡った時期などは不明。

 吉田教授らは、マニ教僧侶の特徴である赤い縁取りの入った白いショールを着た人物が描かれていることや、中国・新疆ウイグル自治区で見つかっているマニ教史料との照合などから、マニ教の絵画と断定した。

68荷主研究者:2010/11/14(日) 11:51:46

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101102t15034.htm
2010年11月02日火曜日 河北新報
仙台・法領塚古墳 東北最大の円墳と判明 有力者支配か

古墳の外側に段差状のすそが見つかり、古墳時代終末期の東北最大の円墳と判明した法領塚古墳=仙台市若林区一本杉町(市教委提供)

 仙台市若林区の聖ウルスラ学院の一本杉キャンパス内にある法領塚古墳が、古墳時代終末期(7世紀前半ごろ)では東北最大の円墳とみられることが市教委の調査で分かった。市教委は「仙台平野に東北トップクラスの有力者がいたことを示す証拠になる」とみている。

 市教委によると、これまで発掘された古墳の外側に、新たに下段部分のすそが見つかった。古墳は直径が50メートル以上、高さは6メートルに上るとみられ、1970年の調査で「直径32メートル前後」と推定した規模を大幅に上回った。

 前方後円墳が造られなくなった終末期の古墳は全国的に小規模なものが多いが、東北は巨大化する傾向もあったという。

 同時期の円墳はこれまで、須賀川市の蝦夷穴古墳、いわき市の甲塚古墳など、直径36〜37メートルが東北で最大とされていた。

 市教委文化財課は「遠見塚古墳や郡山遺跡などと合わせ、仙台平野が古代でも重要な地域で、有力者が支配していたことがうかがえる」と話している。

 今回の調査は聖ウルスラ学院英智小・中学校の新校舎建設に伴って実施され、10月12日に円墳周辺の発掘を始めた。

69荷主研究者:2010/12/02(木) 21:11:53

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101120t15040.htm
2010年11月20日土曜日 河北新報
国史跡・仙台郡山官衙遺跡群 240平方メートルを追加答申

 文化審議会は19日、国内最古級の地方官衙(かんが=役所)跡とされる国史跡の「仙台郡山官衙遺跡群」(仙台市太白区)に、約240平方メートルを追加指定するよう高木義明文部科学相に答申した。

 同遺跡群は国府多賀城が創建される以前の役所跡で、官衙跡と付属寺院「郡山廃寺跡」がある。東北最古の城柵で、東北支配の拠点と考えられている。

 2006年に約4.3ヘクタールが史跡指定された際は「古代国家成立期の東北地方の政治・軍事拠点を知る上で貴重な遺跡」とされた。その後、07年にも追加指定され、計4.4ヘクタールあまりが指定されている。

 今回は、「Ⅰ期官衙」(7世紀中ごろから後半)と「Ⅱ期官衙」(7世紀末から8世紀中ごろ)の遺跡が重なる部分が追加指定される。

 郡山官衙遺跡群は東西約800メートル、南北約900メートルの範囲に広がり、面積は約60ヘクタール。史跡になっているのは政庁跡など重要な部分で、仙台市教委は最終的に約9ヘクタールの史跡指定を目指す。08年には、歴史公園として整備する方針を打ち出している。

70荷主研究者:2010/12/18(土) 16:28:46

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20101127/CK2010112702000056.html
2010年11月27日 東京新聞
「東山道武蔵路」か 坂戸 「町東遺跡4区」から道路遺構 

真上から見た道路遺構。白い破線のように側溝2本(矢印が道幅)が左から右に直線的に延びているのが分かる(坂戸市教委提供)

 坂戸市教育委員会は同市戸宮町東の「町東遺跡4区」から、主に奈良時代の「官道」の一つ「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」と特徴が酷似した道路遺構が見つかったと発表した。同市教委は「東山道武蔵路であることは確実視される。推定ルートがほぼ確定することになり、古代史を考える上で重要な発見」としている。 (中里宏)

 東山道武蔵路は七世紀後半から八世紀後半まで使用されていたと考えられており、群馬県太田市付近で東山道の本道から分岐して、東京都府中市の武蔵国府までを結んだと推定されている。町東遺跡は、南北にほぼ直線に延びるこの推定ルート上にある。

 道路遺構は、路面の両側に側溝が掘られており、溝間の幅約十メートル。側溝は幅約一メートルで深さ約六十センチだった。所沢市の東の上遺跡で発見されている東山道武蔵路の側溝の底には、粘性の高い土(ローム)が塗られていたが、町東遺構の側溝も同様の工事が行われていた。古代の官道は幅九〜十二メートルと広く、ときには数十キロも直線的に続くのが特徴。十六キロごとに馬などを備えた「駅家」が置かれていた。東の上遺跡の約十六キロ北の八幡前・若宮遺跡(川越市)では、「駅長」と墨で書かれた土器が出土している。近くの女堀遺跡でも東山道武蔵路とみられる遺構が見つかっている。

 市教委は位置関係や掘削方法などから、遺構が東山道武蔵路であることは、ほぼ確実とみている。

 古代交通に詳しい長崎外国語大の木本雅康教授(歴史地理学)は「遺構は東山道武蔵路にほぼ間違いない。『東の上』から北に『八幡前・若宮』『女堀』と坂戸の『町東』は、ほぼ直線上にある。坂戸から北も、ほぼ直線的に太田市まで延びていたと考えてよいのではないか」と話している。

 町東遺跡から北に約二キロの推定ルート西側には、県内最古・最大の古代寺院跡とされる勝呂廃寺(七世紀後半〜十世紀)がある。

 町東遺跡の調査は九月末から十月中旬にかけて行われ、現在、住宅建設で埋め戻されている。

<東山道武蔵路> 7世紀、律令政府が造った「官道」の一つ。東山道は当時の行政区画の名前でもあり、東山道に属する諸国の国府を結ぶため、畿内から内陸部を通って現在の群馬、栃木県を通り、東北地方まで続いていた。朝廷の官吏使節が使ったほか、各地で集められた税を都に運ぶのに使われた。8世紀後半に武蔵国が東山道から東海道に編入され、東山道武蔵路は官道から外れた。

71名無しさん:2010/12/25(土) 17:06:12
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1121850928/69
うう

72荷主研究者:2011/04/09(土) 16:25:58

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011033123580877/
2011年4/1 6:00 山陽新聞
総社・鬼ノ城 復元整備が完了 天空の城の威容現代に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2011033123580877-1.jpg
城壁や城門などが復元され、古代の威容を取り戻した鬼ノ城

 総社市教委が進めていた古代山城・鬼ノ城(同市奥坂、国史跡)の復元整備事業が31日、着手から10年の歳月を経て完了。城壁や城門などが再建され、壮大堅固な“天空の城”の威容が現代によみがえった。

 7世紀の国際的緊張の下に築かれた本土防衛網の一つとされる同城。同市教委は発掘成果を踏まえ、城域西部を中心に2001年度から整備に着手。3層建ての西門、防御施設の角楼、土塁と石塁を組み合わせた高さ6メートルに及ぶ城壁など、他に類を見ない重厚な遺構を相次いで復元した。

 最終の10年度は、西門付近から東に延びる城壁(約140メートル区間)のうち、未完成部分を土塁でつなぎ、基礎の敷石や板塀を整備。31日に現地で完了検査があり、計画通りの施工を確認した。

74杉ひのき:2011/06/26(日) 01:02:13
マニ教絵画の個人蔵五点は伝来不明なそうですね。大和文華館のシンポジウムでも「宇宙図」はすごいというだけで、その伝来情報が全く出てきませんでした。別に所蔵者の個人名が知りたいわけではないのですが。「大和文華」の古川氏の論文を見ても、細部では江南の仏画との共通性が指摘できるそうですが、肝心の、全般的に見てよく似た画風の遺品は存在しないようです。「伝敦煌仏画」として長く骨董店にあったそうですが、敦煌かどうかは別にして、江南仏画なのかも確証がなく、製作年代も不明なこの資料を現時点であまり大きく扱うのは問題だと思いました。内容も理解されないまま複数のマニ教絵画(「宇宙図」「天界図」「聖人伝図」)が一緒に伝来したというのは
不自然なので、日本への古渡りではありえないわけですし、それでは中国で近代までマニ教の結社が隠し持っていたのでしょうか。宇宙図は、「霞浦文書」などからうかがわれる、仏教や道教と習合した末期の中国マニ教のレベルをはるかに超えるもののような気がします。それよりは西域の乾燥地帯からの出土品とみるほうが、伝来状況上自然に思われます。

75とはずがたり:2011/09/20(火) 12:25:37
結局此迄放置してきたから震災で必要になったときダメといわれても納得いかないよなぁ。。
>蛸ノ浦貝塚には、史跡を説明する看板こそあれ、荒れ放題。訪れる人もまれで、普段は住民もほとんど意識していなかった。

文化財は“邪魔者”? 保護か開発か、揺れる被災地
2011.9.18 22:09
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110918/dst11091822110020-n1.htm

 文化財の保護か、被災者の生活か。東日本大震災で津波の被害を受けた岩手県沿岸部の高台にある遺跡をめぐって、議論が起きている。高台が少なく、移転候補地になり得るが、利用に厳しい規制があるためだ。「本来なら貴重な文化遺産なのに」「規制緩和してほしい」。地域の誇りとなるはずの遺跡に、人々の思いは揺れている。(渡辺陽子)

 「史跡ってのは、命より大切なのか」。9月中旬、岩手県大船渡市蛸ノ浦地区で開かれた復興住民会議で住民が声を上げた。

 同地区は約50世帯が津波で被災。20世帯以上が、地区の高台にある国指定史跡「蛸(たこ)ノ浦貝塚」への集団移転を求めていた。史跡の地権者も15人中7人が家を失った。

 蛸ノ浦貝塚は標高約35メートルの丘に広がる。約5万5千平方メートルが国の史跡に指定され、縄文時代の土器や人骨、住居跡などが大量に出土。貝層の厚さは最大2メートル以上あり、規模と保存状態の良さから日本屈指の大貝塚として知られる。

 国指定史跡は文化財保護法で土地利用が厳しく制限され、開発には文化庁長官の許可が必要となる。そもそも長期間の保護が目的で、「住居の移転は原則として認められない」(文化庁)という。

 大船渡市も復興住民会議で、「貴重な文化財を守るという国の見解を尊重する」との姿勢を崩さず、「史跡の一部だけでも規制緩和はできないか」と訴える住民との溝は埋まらなかった。

価値があるなんて

 住民が移転を求める背景には、史跡の価値への相違もある。

 「そんなに価値のある史跡だなんて初めて知った」。蛸ノ浦地区の仮設住宅で暮らす主婦(66)は首をかしげる。蛸ノ浦貝塚には、史跡を説明する看板こそあれ、荒れ放題。訪れる人もまれで、普段は住民もほとんど意識していなかった。

 6月には、規制緩和を求める要望書が地権者から大船渡市に提出された。地権者の一人、志田賢太郎さん(82)は「禍根を残せば、貝塚がいくら国の宝でも、“良い宝”にはなりにくい。早く具体的な移転候補地を示し、被災者を安心させることが大切だ」と複雑な胸中を吐露する。

スピード調査

 高台移転のために、遺跡の発掘調査に追われる自治体もある。

 沿岸部の高台を中心に、縄文時代の住居跡など640カ所もの遺跡が確認されている岩手県宮古市。高台移転を希望する被災者から開発の届け出が相次ぐ。

 文化財保護法では、遺跡を開発する場合、事前に調査員が発掘調査を行い、記録を残さなければならない。宮古市は調査員を増員し、9月からは岩手県から緊急派遣された調査班が発掘を手伝うなどして、届け出があったうち約半数の調査を終えた。

 宮古市教育委員会の高橋憲太郎さん(52)は「遺跡が『復興の壁』とは思ってほしくない。今を生きる人の生活が何より大切だから、全力でスピードアップを図る」と話す。

 文化庁は発掘調査を簡略化するよう指導したほか、調査費用の補助金の増額や適用範囲の拡大などの支援策を検討。今後見込まれる調査員の人手不足についても、「速やかに対応できるよう努力する」と話している。

76とはずがたり:2011/09/22(木) 11:30:06

元岡古墳群の太刀/X線で日付判明「興奮」
http://mytown.asahi.com/fukuoka/news.php?k_id=41000001109220001
2011年09月22日

 国内で初めて、年と月日を組みあわせて表記した刀剣類が、福岡市西区の7世紀の古墳から出土した。21日に福岡市教委が発表した。大刀(た・ち)がいつ作られたのかや、当時の地方と中央の関係を知る手がかりになる貴重な発見。同区元岡の元岡古墳群にある墳墓は巨大な石で造られ、建設技術の高さもうかがわせる。

 西暦570年とみられる「庚寅(こう・いん)」の干支(え・と)と、「正月六日」の日付が刻まれた大刀が見つかったのは、縦2メートル、上底1・6メートル、下底2・1メートルほどの台形の石室の中。耳飾りなどの装飾品と一緒にあったという。市教委埋蔵文化財第2課によると、骨は溶けてしまうため遺体はなかったが、装飾品があることから遺体もあったとみられるという。

 発見は8月下旬。慎重に作業を進めて9月上旬に取り出した。大刀はさびで覆われていたため、文字は識別できなかったが、市埋蔵文化財センターでX線撮影し、文字が確認できた。現地で発掘を担当する同課の比嘉えりかさん(30)は「年月日入りの文字が確認できたときはみんな大興奮した」と振り返る。

 同課によると墳墓は古墳時代終末期のもので、大きな石を使うのが同期の特徴という。石室上部の石は長さ2メートル以上。比嘉さんは「どうやって載せたのかはわからないが、当時石を組むための高い技術があったとわかる」と話す。

 一般向けの現地説明会は23日午前10時から。問い合わせは市教委宮草事務所(092・806・2393)。(岩本美帆)

西暦570年示す大刀 最古の暦か
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/529091/
配信元:産経新聞
2011/09/22 09:41更新

 ■福岡 元岡古墳群
http://yj.pn/U_qh05

 福岡市教育委員会は21日、同市西区の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で、西暦570年を示すとみられる「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土したと発表した。

 調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示すとみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。

 坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な資料だ」と話している。

 市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。

 大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。銘文は刀が作られた年月日などを記しているとみられ、最後の文字は「練」の可能性もあるといい「すべてよく練りきたえた刀」という意味が考えられるという。

 大刀が出土したのは元岡古墳群のG6号墳(直径18メートル)で、古墳時代では国内最大級の全長約12センチの銅鈴も見つかっており、被葬者は有力豪族とみられるという。

 現地説明会は23日午前10時から、福岡市西区元岡の発掘現場で。

 【用語解説】元嘉暦…中国南朝宋の天文学者・何承天が編纂(へんさん)した暦法で、中国や日本で使われていた太陰太陽暦。南朝の宋、斉、梁の諸王朝で、445年から509年まで用いられた。百済へは宋から伝えられ、661年の滅亡まで使用された。日本には6世紀ごろ、百済から招いた暦博士が大和政権にもたらしたと考えられている。「日本書紀」の暦日が5世紀中ごろから元嘉暦の計算と合うことから、日本でも元嘉暦を用いていたと推定されている。

77荷主研究者:2011/12/30(金) 21:21:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111201t15011.htm
2011年12月01日木曜日 河北新報
梵鐘鋳造遺構が出土 東北最古、貞観地震の復興用か

梵鐘鋳造遺構について説明する市教委文化財課の調査員=30日、仙台市若林区木ノ下3丁目

 仙台市教委は30日、若林区木ノ下の薬師堂東遺跡で、宮城県内では初めて、梵鐘(ぼんしょう)鋳造遺構が見つかったと発表した。併せて出土した瓦や土器から9世紀後半の遺構とみられ、東北で発見された梵鐘鋳造跡としては最古となる。遺跡の西隣にある陸奥国分寺が貞観11(869)年の貞観地震後に修理されており、市教委は復興に伴い梵鐘が鋳造された可能性が高いとみている。

 遺構は2メートル四方の竪穴で、その底には直径約70センチの台座など鋳造作業を行った跡が残されていた。また、はりにつるすための「龍頭(りゅうず)」の部分とみられる鋳型が見つかったほか、土器片や銅の塊が廃棄された形で見つかった。

 市教委によると、梵鐘製作には高度な技術が必要で、当時は専門の工人が寺院近くで鋳造することが一般的だったため、陸奥国分寺で使われたとみられる。遺構の時期は、龍頭の様式や瓦などから奈良時代の陸奥国分寺の創建期(8世紀中期)以降、平安時代の10世紀初頭以前と推定される。

 付近では、鉄や銅を溶かすための炉の破片や鉱物が数多く出土した。

 古代寺院は大規模な木造建築物で、くぎや金具といった金属製品が大量に使われることから、国分寺の建築や修理の際に、近隣で加工されていたことを示す有力な手掛かりになるという。

 市教委は、出土した遺物全体を総合的に評価し、梵鐘鋳造遺構は9世紀後半に使われたと推測した。東北では、秋田県で12世紀、岩手県で12世紀と18世紀の梵鐘鋳造遺構が見つかっている。

 現地は市地下鉄東西線薬師堂駅(仮称)の駅前広場整備予定地で、2007年の試掘調査で遺跡があることが判明した。

 市教委文化財課は3日午前10時半から、現地で遺跡見学会を開く。

78荷主研究者:2011/12/30(金) 23:04:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/12/20111207t11021.htm
2011年12月07日水曜日 河北新報
多賀城南門復元へ 歴史まちづくり、国が認定

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20111207002jd.jpg
多賀城南門の復元イメージ(多賀城市提供)

 宮城県多賀城市の歴史的景観や文化を保存し、東日本大震災からの復興に向けたまちづくりに生かす市の「歴史的風致維持向上計画」(2011〜20年度)が6日、歴史まちづくり法に基づく国の認定を受けた。東北では弘前市、白河市に次ぐ3件目の認定で県内では初めて。国特別史跡多賀城跡の象徴として検討されてきた多賀城南門の復元が始動する。

 計画は(1)古代多賀城(国特別史跡多賀城跡、国重要文化財多賀城碑など)(2)塩釜街道(沿道の道標や陸奥総社宮)(3)農村集落(板倉、南宮神社など)(4)貞山運河(水運や灯籠流し)―を保護すべき歴史的風致に挙げ、327ヘクタールを重点区域とした。

 多賀城南門の復元事業は12年度に着手、多賀城創建1300年となる24年度の完成を目指す。大きさは間口約10メートル(屋根含め約15メートル)、奥行き約6メートル(同11メートル)、高さ約13メートル。合わせて南北大路など多賀城跡を一体的に整備する。

 震災で壁が崩落するなどした個人宅の板倉の調査や改修費用の助成、塩釜街道沿いの板塀復元も盛り込んだ。歌枕として知られる「沖の井」「末の松山」などの景観再現にも取り組む。

 多賀城市は10年度末の認定申請を目指し、市民とのワークショップなどを行ってきたが、震災で一時中断した。市は「南門を復元し、多賀城市復興のシンボルとしたい」としている。

<歴史まちづくり法>国土交通省、文部科学省(文化庁)、農林水産省が2008年、歴史的建造物や町並み、伝統・文化を生かした人々の活動など「歴史的風致」の維持・向上と継承を目的に定めた。計画の認定により、事業費の半分を上限に国から助成が受けられる。これまでに金沢市、京都市など全国の26市町が認定された。

79とはずがたり:2012/02/08(水) 22:15:21

仁徳天皇陵で「正辰祭」 宮内庁が初めて取材許可
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1121850928/

 宮内庁が仁徳天皇陵に指定する堺市の大山古墳

 世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定する堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)で8日、仁徳天皇の命日祭「正辰祭」が営まれた。皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。全国の天皇陵や陵墓参考地など約600カ所でそれぞれ年に一度行われているが、国民の目に触れる機会はほとんどなかった。宮内庁は今回、共同通信にメディアとして初めて正辰祭の取材や撮影を許可した。

 堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、同庁に天皇陵の情報公開を望む声が高まる中、陵墓での祭祀の実態を知る貴重な機会として注目されそうだ。
2012/02/08 10:20 【共同通信】

80とはずがたり:2012/10/13(土) 23:43:24
>>4-5

藤村新一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%96%B0%E4%B8%80

藤村 新一(ふじむら しんいち、1950年5月4日 - )は、宮城県出身の元特定非営利活動法人副理事長で、旧石器捏造事件を引き起こした人物として知られる。捏造発覚後、離婚・再婚し妻の苗字を名乗っているため、藤村姓は旧姓である。

1950年生まれ。仙台育英高等学校卒業後、東北電力子会社の東北計器工業へ就職。工員時代に考古資料に興味を持つようになり、1973年には「宮城県古川市馬場壇発見の文字瓦」(共著、『遮光器』7、pp.18-21、みちのく考古学研究会)において線刻文字瓦を資料紹介した。翌1974年以降は、江合川流域の石器を中心とした踏査を始め、1975年にはこの時の仲間を主力とする石器文化談話会が結成され、石器探しの名人として活動した。発見効率が驚異的に高いことから、仲間内では「ゴッドハンド(神の手)」の異名を馳せた。


藤村の弁によれば、功名心から捏造を始めたものの、「神の手」などともてはやされるようになり、プレッシャーから捏造を続けてしまった、とのことである。さらに当初は、捏造は一部と思われていたが、捏造の範囲が相当に広いことが判明し、世論は厳しさを増した。そうした重圧もあってか、解離性同一性障害を発症し、障害者認定を受ける。一方、2003年に入院先で知り合った女性と再婚している。また、右人差し指・中指を自ら切断した。

現在は福島県の障害者就労支援のNPOで勤務している。そして、遺跡等の捏造に関する記憶は精神疾患により残っていないと述べている(週刊新潮2010年11月11日号)。

81とはずがたり:2013/05/16(木) 10:33:57

存在感薄まる聖徳太子 十七条の憲法の功績も否定され始める
http://www.news-postseven.com/archives/20130514_187640.html
2013.05.14 16:00

 年々、教科書における存在感が薄くなっているのが「聖徳太子」だ。推古天皇の摂政として国政を担当、冠位十二階や十七条憲法を制定したと私たちが習った聖徳太子像は、今では厩戸王(うまやとおう)という呼び名が強調され、「国政の担当者」から「協力者」へと格下げされている。文教大学付属高校講師で、歴史家の河合敦氏は、聖徳太子が“失脚”した経緯についてこう話す。
「1996年に中部大の大山誠一教授が厩戸王は実在したが、聖徳太子の功績は『日本書紀』の編纂時に捏造されたものだとする論文を発表し、『聖徳太子非実在説』が論争を巻き起こしました。今では、教科書の記述が示すように厩戸王と死後に神格化された聖徳太子を分けるのが学会でも主流になっています」
 さらに、聖徳太子の最大の功績とされてきた「和をもって貴しとなす」の条文から始まる十七条憲法については、聖徳太子どころか実在の執筆者とされた厩戸王の功績としてすらも否定され始めているのだ。
 その鍵となるのが、唯一十七条憲法が記されている「日本書紀」だ。「日本書紀」は奈良時代の720年に完成。その一部である「推古紀」には、〈推古天皇一二年四月三日 皇太子(厩戸王)自ら憲法十七条を書き記した〉と記載されている。前出・河合氏が指摘する。
「厩戸王のころに皇太子という肩書は存在せず、条文の記述にも、当時は使われなかった『国司』という言葉が出てきたり、文法上の誤りが複数あったりするために、いつ誰かは分かりませんが、後世の捏造とする説もあります。ただ、聖徳太子の神格化は確実に見直されつつあるが、こちらの方はまだまだ議論の分かれるところです」
※週刊ポスト2013年5月24日号

82荷主研究者:2013/07/21(日) 10:38:15

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/18876
2013年06月08日 西日本新聞(最終更新 2013年06月08日 00時48分)
鴻臚館 復元・整備へ 福岡城跡との調和課題に 検討委初会合

 福岡市は7日、古代の迎賓館・鴻臚(こうろ)館跡(中央区、国史跡)の整備・復元に向けた基本構想を策定するため、学識経験者による検討委員会(委員長・小田富士雄福岡大名誉教授、11人)を設置し、初会合を開いた。市は2014年度までに4回の会合を開き、復元する遺構などを盛り込んだ基本構想をまとめ、16年度以降、整備に着手する。

 鴻臚館は7世紀後半から約400年にわたって外交や貿易の公的施設としての役割を担い、施設の構造は5期にわたって変遷したとされる。鴻臚館の跡地付近には江戸時代、福岡城が築城された。

 検討委では、市の担当者が(1)5期のうち、どの時代の遺構を復元・整備の対象にするか(2)鴻臚館の跡地には福岡城などさまざまな施設が重層的に造られてきた−など、整備に向けた課題を示し、委員の意見を求めた。

 副委員長を務める佐藤信・東大大学院教授(日本古代史)は「外交儀礼が中心だった8世紀と、交易が中心になった9世紀以降のどちらに焦点を置くのか、考える必要がある」と指摘した。

 オブザーバーで参加した文化庁の担当者は、鴻臚館跡が同じ国史跡の福岡城跡の一角にあることを挙げ「どういうふうに整備するか難しい史跡でもある。鴻臚館と福岡城の調和を取りながら保存、整備してほしい」と話した。

=2013/06/08付 西日本新聞朝刊=

83とはずがたり:2013/07/28(日) 09:18:59

古代大阪の「難波宮」発掘60年 全貌いまだ明らかにならず
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/trend/snk20130727128.html
産経新聞2013年7月27日(土)15:31

 古代大阪に置かれた宮都「難波宮(なにわのみや)」(大阪市中央区)の発掘調査が始まってから、今年で60年。28日には発見者である文学博士、山根徳太郎氏の没後40年を迎える。一帯は史跡公園となったが、発掘はいまも続けられており、その全貌はいまだ明らかになっていない。役所街は完成していたのか、碁盤目状の条坊はあったのか…。調査の現状と課題に迫った。(渡部裕明)

 ◆所在地2説あった

 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した乙巳(いっし)の変(645年)を機に孝徳天皇が飛鳥から遷都した難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)と、聖武天皇による平城京の副都・難波宮。この前期、後期の難波宮の所在地については江戸時代以降、2説があった。いまも「長柄」の地名が残る北区の長柄周辺(下町説)と、中央区の上町台地(上町説)だ。

 山根氏は大正8(1919)年、大阪市民博物館職員となったのを機に難波宮の研究を始めた。上町台地から奈良時代の古瓦が掘り出されたことを知り、ここに聖武天皇の難波宮があったと確信したが、当時は陸軍の工場群が立ち並び、発掘はできなかった。

 ◆書紀の記述裏付け

 終戦後、軍需工場は撤去され、新しい施設の建設が始まった。それに伴い、昭和28(1953)年、後期難波宮の屋根を飾る鴟尾(しび)の断片が出土。文部省(当時)の助成金もつき、翌年から発掘が始まった。36年には後期難波宮大極殿(だいごくでん)の基壇が見つかり、この一帯に前期、後期の難波宮があったことが確定。48年7月に大極殿跡などの全面保存が決定した。

 山根氏の没後も、平成5年には前期難波宮の朱雀門跡が発見。火災の跡をとどめており、朱鳥元(686)年正月に火災があったとする日本書紀の記述が裏付けられた。

 ◆役所より遊興施設

 前期と後期の宮の違いは何だろうか。前期の宮殿は掘立柱建築で、屋根は板ぶきだ。これに対し、後期は柱が礎石の上に立ち、瓦ぶきの屋根となっている。

 また後期は副都という性格から、役所よりも遊興施設が特徴的だったことも明らかになりつつある。大極殿の東南方からは楼閣状の建物が見つかっており、大阪湾から入り込んだ河内潟や生駒山を眺めながら宴会を催す施設だったらしい。天平勝宝8(756)年、孝謙天皇が行幸した「東南新宮」の可能性が高い。

 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長の高橋工さんは「前期難波宮は日本で初めての中国風宮都で、役人がかなりいた。条坊の存在を裏付ける遺跡も見つかっているが、南北に細長い上町台地には細かな谷が入り組んで、平城京のような碁盤目状の宮域はできなかった可能性が強い」と話している。

【プロフィル】山根徳太郎(1889〜1973年)

 大阪市西区生まれ。東京高等師範学校(現・筑波大)や京都大に学び、大阪商科大(現・大阪市立大)教授となる。定年退官後の昭和29年以降、難波宮の発掘調査を指揮。36年の大極殿跡の発見時には「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残した。宮跡の保存運動にも尽力した。

 ■あす記念シンポ

 山根氏の命日に当たる28日、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で没後40年のシンポジウムが開催される。難波宮発掘に携わった研究者による現状報告のほか、博士の功績などが話し合われる。

84とはずがたり:2013/10/10(木) 16:17:11
すげえw

青銅鏡:古墳で拾った小学生の宝物、国内最古級の重文
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20131009k0000m040052000c.html?fr=rk
毎日新聞2013年10月8日(火)20:34

 神戸市灘区の国指定史跡「西求女塚(にしもとめづか)古墳」の公園で小学生が4年前に拾い、宝物として保管していた金属片が、1986年に同古墳から出土した青銅鏡(1世紀後半)の一部と分かった。8日発表した市教委によると、青銅鏡は古墳で見つかった中では国内最古級で国の重要文化財に指定されている。小学生は金属片を寄付し、市から感謝状を受け取った。

 市立西灘小6年、佐野翔梧君(12)。2009年1月、公園で友人らと鬼ごっこをしていた際、文様入りの金属片(縦3.4センチ、横5.1センチ、厚さ1ミリ)を発見。持ち帰ってビニールポーチに入れ、時々眺めては由来を想像していた。

 その後、社会科で習った青銅鏡に似ていると思い、今年5月に学校に持参。市教委文化財課で分析した結果、同古墳から出土した青銅鏡「浮彫式獣帯鏡」(推定直径約19.5センチ)の一部と判明した。

 この日、市役所で記者会見した佐野君は「謎のかけらが2000年前のものと分かり、皆に見てもらえて本当にうれしい。考古学にも興味が出てきた」と話した。

 同古墳は3世紀後半の前方後方墳で国内最古級。計12枚の青銅鏡が見つかり、05年に一括して重要文化財に指定された。【渡辺暢】

85荷主研究者:2013/11/01(金) 00:19:14

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131025t15036.htm
2013年10月25日金曜日 河北新報
「多賀城」に材木塀跡 創建時の外郭、明らかに

発掘された材木塀の跡。指し示しているのが材木

 宮城県多賀城市の国特別史跡多賀城跡を発掘調査している宮城県多賀城跡調査研究所は24日、政庁の南側で材木塀の跡が見つかったと発表した。多賀城跡では初めて、塀本体を構成する材木5本も出土した。

 塀は創建時(724年)にあった八脚門に延びる形で当時の外郭の南辺を構成したとみられ、研究所は「創建当初の区画施設の構造などが明らかになった」と説明する。

 見つかった材木5本は直径約20センチ。土や木を盛った基礎にあった幅約40センチの溝に約1メートルの深さで埋まっていた。基礎は南北方向が4.4メートル以上、高さが45センチ以上あり、塀の高さは3メートル程度だったと推定されるという。

 八脚門は政庁の南約250メートルの場所にあった。さらに南に120メートルの地点には8世紀半ば、新たに外郭や南門が築かれたのが分かっており、材木塀は切り倒され、通路が造られていたことも判明した。

 研究所は「多賀城を取り囲む外郭が時代で移されたとの見方があらためて裏付けられた。材木塀が最初の外郭だったことが確実になり、通路などへの変遷もつかめた」と説明している。

 研究所は26日午前10時半から現地説明会を開く予定。現地はあやめ園駐車場から徒歩10分。連絡先は研究所022(368)0102。

86荷主研究者:2013/12/08(日) 21:17:10

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20131123/CK2013112302000017.html
2013年11月23日 中日新聞
6世紀ごろの石室出土 亀山・ヤマトタケル陵墓周辺を初調査

発掘調査で見つかった横穴式石室=亀山市田村町で

 神話上の英雄ヤマトタケルの陵墓とされる亀山市田村町の日本武尊能褒野(やまとたけるのみことのぼの)墓(能褒野王塚古墳)の周辺が初めて発掘調査され、小規模な横穴式石室や縄文土器の棺などが見つかった。墓を管理する宮内庁陵墓課の担当者は「周囲にある小規模古墳の年代や構造を知る手がかりになった」と話している。

 調査は、墓の周辺で宅地開発が進んだため、境界線を示す準備として、宮内庁が十月七日から実施。ヤマトタケルの墓とされる全長九十メートルの前方後円墳の周辺にある十七基の円墳のうち、九基の三十一カ所を発掘して調べた。

 調査の結果、六世紀ごろのものとみられる縦三・七メートル、横一・五メートルの横穴式石室を初めて確認。後世の盗掘により石壁の一部だけが残っており、副葬品の須恵器六点も見つかった。埋葬規模から、地域の有力者の墓とみられる。

 このほか、縄文時代晩期(紀元前十世紀ご)のものとみられる土器の棺の一部が出土。宮内庁は、古墳が作られる前の時代も、周辺が墓地として使われていたとみている。

 陵墓は、北勢地域では最大の前方後円墳で、古事記や日本書紀ではヤマトタケルが伊勢国能褒野で没したとされていることから、一八七九(明治十二)年に内務省がヤマトタケルの墓と定めた。陵墓は発掘調査されたことはなく、四世紀後半ごろに作られたとみられている。

 (滝田健司)

87とはずがたり:2014/01/15(水) 11:16:40
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%94%E6%9B%B8
詔(みことのり)は、天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。
律令制においては、公式令(くしきりょう)に詔書の書式が定められていた。重要事項の宣告に用いられ、天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿全員の署名を必要とした。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり、手続きが煩雑なため、即位、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A6
符(ふ)とは、律令制において上級の官司(所管)より下級の官司(被管)に対して命令を下す際に用いる公文書のこと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%92
牒(ちょう)とは、律令制における公文書の様式の1つ。
本来は、主典以上の官人個人が諸司に上申する際に用いられたもので、その様式は書出に牒の字を記してから本文を記して、謹牒(つつしみてちょうす)の書止で締めくくり、最後の行に年月日と位署(官職・位階・氏名)を書いて位署の下に「牒」の一文字を入れたものである。大宝令の公式令の牒はこの文書のみを指していたと考えられている。更に令外官が設置されるようになると、令外官には所管・被管の上下関係が存在しない場合があるため、原則的に令外官が関わる(差出人・宛先人の片方もしくは双方が令外官)の場合には牒が用いられていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%92
解(げ)とは、律令制において下級の官司(被管)より上級の官司(所管)にあてて提出される公文書のこと。
本来は令外官や寺社より太政官に上申する場合には牒が用いられ、個人が役所に出す文書には辞などが用いられていたが、後にはこれらの文書も一括して解として処理されるようになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB
移(い)とは、律令制における公文書の様式の1つで、上下関係にない官司間において相互に授受する文書である。ただし、当事者の一方もしくは双方が令外官であった場合には牒を用いることとなっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9E
辞(じ)とは、律令制において雑任以下の下級官人及び一般庶民(白丁)が、官司に上申する際に用いたとされる文書。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8B%E5%8D%B0
請印(しょういん)とは、律令制における公文書発給手続において、官印(内印(天皇御璽)および外印(太政官印))を押印する。特に前者の請印は公文書発給のための重要な儀式として位置づけられていた。
内印の請印はまず上卿が文書を被見した後、内印を管理する少納言が天皇に請印の許可を得る奏上を行って、裁可を得た文書は勅符・位記は少納言が、その他の文書は主鈴が捺印した。平安時代になると内印の請印が増加して天皇への負担も増大したため、嵯峨天皇が1度に50通までに制限しようとしたものの、これが政務の停滞を招いた。この矛盾が官宣旨などの請印手続を迂回した令外文書を生み出す一因になった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%96%87
下文(くだしぶみ)とは、上意下達を目的として平安時代中期以後に上位の機関(官司とは限らない)から下位の機関もしくは個人にあてて出された命令文書のこと。
元来、公式様文書では符及び牒が用いられていたが、発給までに請印など複雑な手続を要したために時間がかかった。そこで上卿の意を受けた文書発給担当者が直接文書による上意下達を行うことが行われるようになった。
そのさきがけとなったのは、太政官からの命を受けて弁官局が発給した官宣旨で弁官が直接命令文書を下したことから「弁官下文」とも呼ばれた。11世紀以後、令外官司や権門の家政機関などにおいて同様の形式の上意下達文書が作成されるようになりこれらをまとめて下文と呼ぶようになった。細かい書式の差異が除かれるなど簡便であったこと、荘園公領制の成立や律令制の弛緩に伴って既存の公文書発給機能が衰退したこともあり、平安時代中期から中世前期にかけては機関・階層を問わず広く用いられた。

下文は鎌倉時代後期に奉書・書下が登場すると衰退し、室町時代には書札様文書によって取って代わられることとなる。

88とはずがたり:2014/01/15(水) 11:17:24

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%AE%A3%E6%97%A8
官宣旨(かんせんじ)とは、弁官下文(べんかんくだしぶみ)とも呼ばれ、平安時代に太政官上卿の口宣を弁官が諸国・寺社に対して発給する下文。官符・官牒の代用として用いられた。
太政官が出す公文書は原則外記局が作成するが、官宣旨は諸国・寺社との窓口である弁官局が発給する。従って、外記局を管轄する少納言が持つ太政官の官印は押印されない。なお、官宣旨の“官”とは「太政官」ではなく「弁官」のことと解するのが通説である。また、弁官局は職掌によって左右に分かれているが、官宣旨はその職掌とは無関係に吉事(一般の行政・事件)は左弁官が、凶事(犯罪者の追捕)は右弁官が発給することとなっており、しかも前者が発給する(「左弁官下文」)が圧倒的に多いため、前者のみを官宣旨と称する場合もある。
形式上は後から正式な官符・官牒が出されることを前提としていたため、実際には正式な公文書が作成されない場合でも「官符追下」という書止が付されることが多かった。また、緊急性の低い命令や非命令文書であっても官宣旨の発給で済ませる事例もあった。
鎌倉時代に入ると、こうした命令には治天の君による院宣やより簡略化された綸旨が用いられることが多くなったために、寺社に対する仏事や神事の日程や朝廷の使者の派遣の通告などに限定されるようになっていった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%BA%81%E4%B8%8B%E6%96%87
院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)は、平安時代院政期に、院庁が発給した文書。院司が連署する下文の形式である。院宣よりも公的性が高いとされる。
平安後期に上皇が治天の君として君臨し、政務を取り仕切る院政が開始すると、詔勅や太政官符に代わる、政治意思の表示方式を確立する必要が生じた。そこで、治天の政務機関として設置された院庁の発給する文書、すなわち院庁下文が、詔勅や太政官符と同等の効力を持つものとして取り扱われるようになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E7%8A%B6
直札(じきさつ)とは、御教書を出しうる高貴な身分である差出人本人が直に署判・署名を行って差し出す書札様文書のこと。直状(じきじょう)・直書(じきしょ)とも。家臣が代理して差し出す奉書や本文ではない副状(添状)に対して用いられる。
、武家様文書の世界では却って公文書の直札化が進んだ。鎌倉幕府では執権・連署は奉書が原則であったが、六波羅探題・鎮西探題では直札によって御教書が出された。室町幕府になると、征夷大将軍の御判御教書をはじめ、幕府・守護職が出す多くの公文書が直札形式となった。戦国大名・武将らが出した文書はほとんど直札で、かつ家臣による副状を添付するのが典型的となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E6%9B%B8
奉書(ほうしょ)とは、古文書の一種。高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に1度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの。文書内容が差出者の意思と一致する直状と対になる概念である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B8%E6%97%A8
綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%AE%A3
院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E6%97%A8
令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。
中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。

89とはずがたり:2014/01/15(水) 11:18:15
>>87-89

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%95%99%E6%9B%B8
御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。三位以下の公家や守護大名クラスの武士の家司・家僕が主の意思を奉じて発給した同形式の文書は奉書という。
下文が訴訟の判決、裁許状など効力が永久的になる正式文書であるのに対し、御教書は通達や緊急の命令などで、文書としての格は劣るものとされた。

源頼朝は下文・下知状・御教書を発給文書の三本柱として武家様文書の基礎を作った。ただし、文治元年(1185年)4月27日に従二位に昇進する以前は奉書と呼ぶ。頼朝没後も御教書は幕府の公的意思を通達する手段として用いられ、次第に御教書の使用頻度が増え、下文・下知状は衰える。

室町時代にはいると、御教書は下文・下知状を駆逐して幕府が発給する最上格の文書形式となる。しかし、それに伴って現れた私信である直状形式の御内書などが次第に広く用いられるようになり、御教書はやがて使われなくなる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%86%85%E6%9B%B8
御内書(ごないしょ)は、室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。
室町期に足利将軍家によって創始され、形式そのものは差出人が文面に表記される私信と同じものであるが、将軍自身による花押・署判(署名・捺印)が加えられており、将軍個人の私的性の強い命令書でありながら、御教書に準じるものとして幕府の公式な命令書と同様の法的効力があった。
主に、将軍の私的な用向を伝える書状として機能していたが、室町時代後半になると管領などが発給する御教書が減少するかわりに御内書が増大し、将軍の意思を直接通達する書状として公文書化した。なお、通常は側近である侍臣による副状が添付されるのが慣例であった。

五山の住持の任命状である公帖は御教書あるいは御内書として発給されている他、天正4年に毛利氏のもとに亡命していた将軍足利義昭が反信長勢力迎合のため甲相越一和を試みた際の命令書もこの御内書形式によっていたとされている。
御内書は、豊臣政権では豊臣秀吉の、江戸幕府も将軍の意思の伝達する文書として、継承された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E4%B8%AD%E5%A5%89%E6%9B%B8
老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。但し、大老および大政参与は加判を免除されている。また、老中格では署名を行わない。

90とはずがたり:2014/01/19(日) 18:45:04

>しかし議奏に指名された公卿は頼朝との面識はなく、頼朝追討宣旨に賛同した実定が含まれるなど、必ずしも親鎌倉派という陣容ではなかった。頼朝から内覧推薦の書状を受け取った兼実は「夢のごとし幻のごとし」と驚愕し、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えている。他の公卿についても一方的かつ突然の就任要請だったと見られ、後白河と頼朝の対立の矢面に立たされることに困惑する者も多かったと推測される。その後、面々のほとんどが院庁別当として後白河に取り込まれてしまい、議奏はその機能を停止した。
なんだったんだ??

議奏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E5%A5%8F

公家の職制の一つ。主に鎌倉時代初期及び江戸時代中期以後に存在したものが知られている。

鎌倉時代

文治元年(1185年)10月18日、後白河法皇は源義経の要請により源頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。後白河は頼朝に「天魔の所為」と弁明するが(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』11月26日条)、頼朝は院の独裁を掣肘するために廟堂改革要求を突きつける。内容は「行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣」である平親宗・高階泰経ら12名の解官、議奏公卿10名による朝政の運営(九条兼実・徳大寺実定・三条実房・中御門宗家・中山忠親・藤原実家・土御門通親・吉田経房・藤原雅長・日野兼光)、兼実への内覧宣下だった(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。

また、義経の任国だった伊予を兼実の知行国にしたのをはじめ、実定・宗家・実家・通親・雅長にも新たに知行国が給付された。頼朝の議奏に対する期待は大きく、翌文治2年(1186年)4月30日付の議奏公卿に宛てた書状には「天下の政道は群卿の議奏によって澄清せらるべきの由、殊に計ひ言上せしむるところなり」「たとひ勅宣・院宣を下さるる事候といへども、朝のため世のため、違乱の端に及ぶべきの事は、再三覆奏せしめたまふべく候なり」と記されている(『吾妻鏡』同日条)。しかし議奏に指名された公卿は頼朝との面識はなく[1]、頼朝追討宣旨に賛同した実定が含まれるなど、必ずしも親鎌倉派という陣容ではなかった。頼朝から内覧推薦の書状を受け取った兼実は「夢のごとし幻のごとし」と驚愕し(『玉葉』12月27日条)、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えている(『玉葉』12月28日条)。他の公卿についても一方的かつ突然の就任要請だったと見られ、後白河と頼朝の対立の矢面に立たされることに困惑する者も多かったと推測される。

その後、面々のほとんどが院庁別当として後白河に取り込まれてしまい、議奏はその機能を停止した。ただし、その後も朝廷内にて必要に応じて設置された形跡があり、西園寺公衡の日記である『公衡公記』の正応元年(1288年)正月の記事に「議奏公卿」の名前が登場している。

91とはずがたり:2014/01/19(日) 18:53:40
西園寺派としては関東申次萌え♪
豪腕源博陸久我道親も可成り好きだけえが西園寺公経もなかなか(・∀・)b

関東申次
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E7%94%B3%E6%AC%A1

関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代の朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った。

関東申次には、初めは幕府側の私的な指名を受けて特定の貴族が就任していた。寛元4年(1246年)に九条道家が失脚した以後は、幕府による指名によって任命される正式な役職となり、源頼朝と婚姻関係(姪の嫁ぎ先)があった西園寺家当主による事実上の世襲となる。
承久の乱以後、原則として朝廷の重要事項の決定には関東申次を経由して幕府の許可を得ることになった。大覚寺統と持明院統による皇位継承争いの激化に伴って、皇位継承問題や宮中の人事の是非も関東申次の一存がその帰趨を握るようになり、その権威は大きくなっていった。なお、近年においては関東申次(西園寺家)の政治的影響力を過大視しているとする本郷和人の説も提示されているが、これに対して天皇家などの諸権門が関東申次を無視して使者を鎌倉に派遣することはあっても、鎌倉幕府から朝廷に対して派遣される使者(東使)は一貫して関東申次(西園寺家)に取次を依頼しているとする溝川晃司らによる反論も出されている。また、白根靖大は九条道家の前に近衛家実を関東申次として追加して承久の乱以後、寛元4年の西園寺家の世襲による常設化までは、鎌倉幕府の政治力の増大を背景として、関東申次を摂関が兼務する慣例が存在していたとする説を唱えている。
だが、西園寺家当主の個人的関係(大覚寺統側との不仲)から次第に持明院統よりの態度を取るようになると、大覚寺統は申次を無視して幕府との直接交渉を展開するようになり、14世紀に入ると急速に求心力を失っていく。やがて、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと西園寺家への風当たりが強くなり、最後の関東申次であった権大納言西園寺公宗は謀反の疑いで処刑されている。

歴代の関東申次

寛元4年(常設化)以前、複数人いた時期もある
吉田経房(頼朝の友人とされるが不明点が多い)
坊門信清(源実朝の義父)
西園寺公経(頼朝の姪婿、将軍九条頼経外祖父)
近衛家実(後堀河朝期の摂政)
九条道家(公経の娘婿、将軍九条頼経実父)
近衛兼経(道家の娘婿、道家の補佐役)
一条実経(道家の子、九条頼経の弟、道家の補佐役)

寛元4年(常設化)以後、西園寺家当主による世襲
西園寺実氏(公経の子)
西園寺実兼(実氏の孫、先に病死した父・公相に代わる)
西園寺公衡(実兼の子)
西園寺実兼(公衡病死に伴い、復職)
西園寺実衡(実兼の孫、公衡の子)
西園寺公宗(実衡の子、鎌倉幕府滅亡により廃止)

92とはずがたり:2014/01/19(日) 18:54:03

武家伝奏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E5%A5%8F

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。
建武の新政の際に置かれ、室町幕府がこれを制度化した。役料はそれぞれ250俵が与えられ、この他に官位禄物の配当があった。定員は江戸時代には2名。
江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、幕末の1867年(慶応3年)まで続いた。

室町時代
室町時代には武家伝奏が改元や任官を幕府に通告し、公武間の意思疎通を図った。また、足利義満以後武家伝奏を経由して室町殿の政治的要求を朝廷に伝える役目を果たした。ただし、武家伝奏の形態が固まったのは戦国時代の永正年間以後である。ただし、室町幕府においては足利将軍家の外戚として有力公家である日野家・近衛家の両家があり、こうした家が朝廷と幕府の仲介に立つ場合もあった。

江戸時代
江戸時代には学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が伝奏に任じられ、就任の際には京都所司代より血判提出を求められた。幕府に対する勅使には武家伝奏が任じられ、幕府による朝政への介入が強まるようになって以降は摂関家・議奏との合議で朝廷の運営に関与するようになった。この時代、伝奏の任命には幕府の許可が必要であるが、任命システムは同じ江戸時代でも変遷があり、江戸前期は幕府が人選を決定し、朝廷は追認するのみであった。中期ごろから朝廷が人選し、幕府が基本的に許可を出す関係へと移行した。幕末には朝廷の人選に対して幕府には拒否権が無くなり事後報告を受けるのみとなった。前期は幕府の朝廷抑制政策のため、中期ごろは誰が務めても大差がなくなり幕府にとって人選の利益が薄くなってきたため、幕末は権力関係の逆転のためと考えられる。
王政復古の大号令に伴い廃止された。

室町時代

万里小路嗣房
広橋仲光
日野資教
裏松重光
広橋兼宣
甘露寺清長 - 応永20年5月20日(1413年6月18日)任
松木宗量 - 応永20年6月29日(1413年7月26日)任
清閑寺家房 - 応永20年7月23日(1413年8月19日)任
勧修寺経興

93とはずがたり:2014/01/19(日) 18:54:25
>>92-93
広橋親光 - 応永35年2月23日(1428年3月9日)任
万里小路時房 - 応永35年2月23日(1428年3月9日)任
中山定親 - 永享8年10月17日(1436年11月25日)任
万里小路時房(再) - 嘉吉3年11月22日(1443年12月13日)任
正親町三条実雅 - 嘉吉3年11月22日(1443年12月13日)任
中山親通 - 文安5年(1448年)3月末任
万里小路冬房 - 宝徳3年3月5日(1451年4月6日)任
広橋綱光
勧修寺教秀 - 文明3年4月29日(1471年5月19日)任
広橋兼顕 - 文明9年閏1月5日(1477年2月18日)任
勧修寺政顕 - 明応5年7月6日(1496年8月14日)任
勧修寺尚顕(臨) - 永正元年7月2日(1504年8月11日)任
勧修寺尚顕 - 永正5年6月24日(1508年7月21日)任
広橋守光 - 永正6年6月21日(1509年7月8日)任
広橋兼秀 - 大永6年9月23日(1526年10月28日)任
勧修寺尹豊
広橋国光
勧修寺晴秀(臨) - 永禄8年(1565年)?任
万里小路惟房 - 永禄11年(1568年)?任
飛鳥井雅教 - 永禄11年(1568年)?任

織豊時代
勧修寺晴右 - 元亀4年(1573年)?任
三条西実澄
中山孝親
庭田重保
甘露寺経元
勧修寺晴豊
中山親綱
広橋兼勝
今出川晴季 - 天正14年(1586年)?任
久我季通
中山慶親 - 慶長3年(1598年)?任
広橋兼勝(再) - 慶長5年(1600年)?任 → 江戸時代の武家伝奏に移行
勧修寺光豊 - 慶長6年(1601年)?任 → 江戸時代の武家伝奏に移行

江戸時代


94とはずがたり:2014/01/19(日) 18:54:58
>>90-94

議奏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E5%A5%8F

公家の職制の一つ。主に鎌倉時代初期及び江戸時代中期以後に存在したものが知られている。

江戸時代

江戸時代には、天皇に近侍し、勅命を公卿以下に伝え、議事を奏上した。定員は4名で毎日交代で1名が宮中・林和靖間に昼夜待機して天皇に仕え、必要に応じて他の3名も出仕した。
寛文3年1月5日(1663年)、幼少である霊元天皇の補佐を目的として葉室頼業・園基福・正親町実豊・東園基賢の4名が任命されたのを嚆矢とする。制度の設置の背景には当時院政を行っていた後水尾法皇の意向があったと考えられている。当初は年寄衆・御側衆などとも呼ばれていたが、貞享3年12月7日(1686年)に霊元天皇は源頼朝の故事から「議奏」の名称を選定し、以後この名称で固定された。

羽林家・名家出身の35歳以上の近習経験者が任命され、当番日以外の日にもいつでも参内を必要とする可能性があることから、実質全日勤務とみなされたために禁裏小番など公家に対する義務のいくつかは免除された。天皇の側近として朝儀・公事・人事・法制など幅広い分野における諮問を行い、天皇出御の際には常に従った。また、奏上・宣下に関する手続にあたり、朝廷の諸奉行・禁裏小番に直接命令を伝えるなど、朝廷の運営の中枢に立ち、摂家・武家伝奏に次ぐ要職であった。摂関や幕府ですら掌握できない天皇の日常の動静を知る立場となるために、議奏は就任に際しては血判誓書を武家伝奏に提出するなどの厳重な手続を要した。このため、役料として朝廷から20石(50俵相当)が与えられ、延宝7年(1679年)江戸幕府からも別途40石(100俵相当)が与えられた。
明治維新によって廃止。なお、議奏によって作成された公的な日記である議奏日次案が今日も一部が現存している。

95とはずがたり:2014/01/22(水) 12:51:24

平経高
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B5%8C%E9%AB%98

平 経高(たいら の つねたか、治承4年(1180年) - 建長7年(1255年)6月)は、鎌倉時代中期の公卿。治部大輔平行範の子。正二位民部卿。日記『平戸記』著者。子に平経氏がいる。

経歴[編集]

幼少期に吉田経房の猶子となるが、建久元年1月(1190年)に復氏して叙爵される。翌年名を時平から経高に改名する。承元3年(1209年)4月に蔵人となり、建暦元年(1211年)1月に右少弁となる。承久2年(1220年)1月に右大弁から順徳天皇の蔵人頭となる。元仁元年(1224年)12月に従三位に叙される。嘉禄2年(1226年)1月には参議に任じられ、暦応元年(1238年)に正二位に叙される。仁治元年(1240年)1月には民部卿となり、京都市中の庶政にあたった。
菅原為長の教えを受け、朝儀・公事に関して高い見識を有し、政務に練達した人物として知られ、広橋頼資によれば本人もそのことについての自負を有していたという(『頼資卿記』寛喜元年9月13日条)。また、九条道家及びその子供達(九条教実・二条良実・一条実経・女婿近衛兼経)の側近として活躍、「任官・加爵・諸訴」を中心とした徳政政策(『平戸記』延応2年2月10日条)の推進に努めた。また、その見識から道家の政敵であった土御門定通からも信任され、定通と摂関家との連絡役を務めた。その一方で、順徳天皇に取り立てられた経緯から鎌倉幕府に対しては公然と反感を示すことがあり、雅成親王や忠成王の後見を引き受けている。『平戸記』にもそうした記述が見られ、連署北条時房が死去した際には後鳥羽上皇の祟りであるとして「関東漸以衰微」と喜んでいる(延応2年1月24日条)。
だが、寛元4年(1246年)の宮騒動以来の一連の政変で九条道家が失脚、同年に鎌倉幕府の支援を受けた後嵯峨上皇の院政が始まると政界から排斥され、失意のうちに建長2年(1250年)に官を退いた。

平経高と六条宮
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_152_21.pdf

戦国時代の宮廷生活
著者: 奥野高廣
http://books.google.co.jp/books?id=CzcZBCz45nYC&pg=PA99&lpg=PA99&dq=%E5%B9%B3%E7%B5%8C%E9%AB%98&source=bl&ots=Uayzd3WIJv&sig=3FVMdjjXS3mRbH861aLrDqLH3sE&hl=ja&sa=X&ei=gArfUsDMLIimrQf-koCADg&ved=0CEkQ6AEwCDgK#v=onepage&q=%E5%B9%B3%E7%B5%8C%E9%AB%98&f=false

96とはずがたり:2014/01/22(水) 12:51:41
桓武帝─葛原親王(1品式部卿・上野太守・帥)─平高望─惟範─時望─真材─親信(参从2)┐
┌───────────────────────────────────────┘
├重義─┬教成→(興福寺)
└行義┐└棟仲
┌──┘
├範国(唐橋・西洞院等祖)─経方─知信─┐
│┌─────────────────┘
|├時信(贈正1左大_)┐
|│┌───────┘
||├時忠(左大弁権大正2・文治元配流能登)─時実(从3左中将号讃岐)
||├親宗(参右大弁中正2_)┐
||│┌─────────┘
||│├親国→(唐橋)
||│├親長
||│├宗宣
||│└女(西園寺公経妾実雄母)
||├時子(从2清盛室)
||├滋子(後白河后高倉母)
||├盛子(平宗盛室)
||└女(平重盛室)
|├知範
│├信範┐
||┌─┘
||├信国→
||├信基=親輔→(西洞院・烏丸等)
||├信季(九条兼実側近・从5下)─親輔
||└女(近衛基通妾道経母)
||
│└女(四条親隆室親雅母)

└行親─定家─時範─実親─範家(右大弁从3_)┐
┌────────────────────┘
├親範(参从3贈左大正1・号毘沙門堂民部入道)┐
│┌───────────────────┘
│├基親(兵部卿从3)─親守
│├俊親(佐分利氏祖・佐分利は尾張国知多郡)
│├仙範(号北之辻)
│└信親─清親(歌人・加賀守)

├行範─●経高(右大弁民卿参正2・平戸記)─経氏─高望─俊高─経有─範経

├棟範─┐
|┌──┘
|├棟基┬成俊(大弐権中正2)→
||__└棟子(宗尊親王母准三后从1)
|├範資─望範
|└棟子(日野資実妾・家光母・从3)
├女(藤能業室)
└女(藤定経母)

97とはずがたり:2014/01/22(水) 16:25:37
>>95の六条宮こと雅成親王。
六条の宮が帰京して京都に住んでいるのは平戸記からも判るようだ。
四辻殿とあるのは四辻宮家のことか?好きな宮家である♪特に臣籍降下し左大臣の四辻善成萌え(;´Д`)

雅成親王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E6%88%90%E8%A6%AA%E7%8E%8B

雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日(1200年10月20日) - 建長7年2月10日(1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院の養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。
建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚をした。将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、鎌倉幕府打倒を決意していた後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国に流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。

ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた。
歌人としても優れており、家集『雅成親王集』がある他、『続後撰和歌集』などの勅撰和歌集にも採録されている。

四辻宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%AE%AE

初代・善統親王

善統親王は順徳天皇が佐渡島に流刑になった後の天福元年(1233年)に生まれた皇子である。彼は時期ははっきりしないが上洛して祖母・修明門院のもとで成長し、親王宣下を受け、建長3年(1233年)に祖母から七条院領を相続した。その後、祖母の住まいであった一条万里小路にあった御所・ 四辻殿を相続したらしく、以後四辻宮と呼ばれるようになった。弘安3年(1280年)・正応2年(1289年)5月の2回に渡り七条院領を後宇多天皇に進献したが、正和3年(1314年)7月に後醍醐天皇から一部(17カ所)を還付される。正応元年(1291年)5月に善統親王は出家し、以後は四辻入道親王と称される。文保元年(1317年)3月、85歳で薨去した。

二代・尊雅王
尊雅王は『通玄寺志』によると父に引き続き四辻宮を名乗っていたことが分かるが、生没年など詳細は不明である。

三代・善成王
善成王は延文元年(1356年)に臣籍降下し源善成(四辻善成)を名乗るが、以後も四辻宮をなのっていたという(『後愚昧記』)。臣籍降下後も親王宣下されることを望んでいたがかなわず、応永2年(1395年)出家した。
善成王(四辻善成)の唯一の男子とされる松蔭常宗は早くに出家して応永14年(1407年)に没しており、以後は子孫、邸宅・所領の相続など不明であり、四辻宮を名乗る人物も未詳である。

98荷主研究者:2014/01/26(日) 18:35:06

http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20140110_5
2014/01/10 岩手日報
国史跡の堀、誤って掘削 県の工事中、修復難しく
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 盛岡市中太田の国史跡・志波城跡の堀の一部が、県の農業用水路改修工事中に誤って掘削されたことが9日、分かった。修復は難しいという。

 市教委によると、現場は志波城の建物群を囲んだとみられる外堀「外大溝(そとおおみぞ)」の南西部分。外大溝は現在は地中にあり地上から見えないが、隣接地で用水路工事を進めていた県が昨年12月20日ごろ、誤って史跡部分を掘削した際、約15メートルにわたって遺構を損壊した。市職員の見回りで発覚した。県の用水路工事の設計ミスが原因という。

 重要文化財を毀損(きそん)した場合、所有者の市は文化財保護法に基づき、文化庁へ届け出る必要がある。同庁は「あってはならないこと。史跡の早期復旧や再発防止の対策が求められる」としている。

 志波城は朝廷から征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂が9世紀初めに造営した行政庁。東北自動車道の建設工事に伴う1976年の発掘調査で確認され、84年国史跡に指定された。一帯は志波城古代公園として土塀や門などが復元され、97年に開園した。

99とはずがたり:2014/02/01(土) 21:53:00
洋画家の話しは省略。

考古学では裏付けられぬ「神武東遷」…神武天皇はなぜ九州から大和へ
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140201573.html
産経新聞2014年2月1日(土)21:35

 初代・神武天皇が高千穂(宮崎)から大和(奈良)へ向かった「神武東遷」。…一方、考古学的にアプローチすると、「東遷」ではなく大和から九州へ“西遷”のような流れがあったという。2月11日は神武天皇即位の日とされる紀元節を引き継いだ「建国記念の日」。節目の日を前に、国の成り立ちを考えてみた。



■畿内&吉備vs北部九州?

 神武天皇が東遷を決意した日向(宮崎)を含む九州とヤマト王権の関係に、考古学的に迫るのが大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長。弥生から邪馬台国、古墳時代につながる古代国家誕生のダイナミックな歴史の流れがみえてくる。

 白石氏は「弥生時代には北部九州が圧倒的に強く、畿内は後進地だった」と指摘。北部九州勢力は、大陸の先進技術に加え、朝鮮半島からは軍事や農業発展に不可欠な鉄資源も独占できたためだ。

 九州勢の“一極集中”を打破しようと手を結んだのが、畿内や吉備(岡山)などの勢力だった。弥生時代末の2世紀末、鉄の輸入ルート確保のため北部九州を制圧し、畿内を中心とする「邪馬台国連合」が成立。古墳時代には版図を関東・東北南部まで広げ、ヤマト政権に発展したと推測する。

■土器が示す東遷の“矛盾”

 ここで問題となるのが、「神武東遷」と考古学との関係だ。神武天皇は日向から福岡、瀬戸内を経て奈良・橿原宮で即位したと古事記は記す。これは、日本の政治・文化の中心が弥生時代の九州から、古墳時代に畿内へ移ったという考古学的事実と合致するようにみえる。

 しかし、弥生から古墳時代への転換点にあたる邪馬台国の時代をみると、そう単純にはいかない。遺跡を掘れば必ず見つかる土器こそが、カギを握る。日常生活に欠かせない土器の分布状況は、そのまま人の動きを反映しているためだ。

 考古学者の地道な研究の結果、3世紀前半には、畿内や吉備地方などで作られた土器が北部九州で数多く出土する一方、北部九州の土器の畿内などでの出土例は少ないことが分かった。畿内や瀬戸内の人々が北部九州へ次々と渡ったのに対し、北部九州から畿内への大移動はなかったことになる。

 「東遷説に従えば、九州の土器が大量に畿内へ入るはずが、逆になっている。神武東遷は考古学的に認めがたい」と白石氏は話す。

 ただし、3世紀に倭国(日本)の中心が九州から畿内へ移ったのは歴史的事実だ。白石氏は「その理由を考古学的に説得できる有力な説はいまだにない。本当に難しい問題」とし、東遷神話の背景は謎のままだ。…

(小畑三秋)

100とはずがたり:2014/03/11(火) 13:30:07

574 名前:R774[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 04:41:02.30 ID:h3mG6hjO
東京外郭環状道路(外環道)建設予定地内で発掘調査が行われている市川市雷下(かみなりした)遺跡から、縄文時代早期の終り頃(約7,500年前)の丸木舟(まるきぶね)が発見されました。
http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/press/2013/20140131.html

575 名前:R774[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 07:42:37.67 ID:nSAlg0mV
え、まだ発掘調査やってたの

576 名前:R774[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 11:30:40.54 ID:R6Sz6HOC
>>575
>え、まだ発掘調査やってたの
今回のは「日本最古の丸木舟」の出土でございます。
これだけなら、まさか、圏央道迂回は無いだろう。

丸木舟は、明らかに丸木舟の製造に使った石器が、鹿児島の栫ノ原遺跡で
発掘されている(12000年前)。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/3/3-05.html
http://kotobank.jp/word/栫ノ原遺跡

欧州では、北部でBC8500年(10500年間)の丸木舟が発掘されている。
http://wired.jp/2009/08/25/湿原で発掘された古代文明3:丸木舟や欧州最古/

101とはずがたり:2014/03/23(日) 13:21:03
古代ロマン<天武は天智の弟ではない>という異説に仰天
http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/63867458.html

読売ホールで聞いた井沢元彦の講演。「渡来氏族・秦氏の謎」は凄い話。さすが「逆説の日本史」の著者です。
歴史学の世界にも「白い巨塔」がある。大先生の意向と違う新説は出せない。出ても抹殺される。だから「庶民の視点・感覚で歴史の常識を変えたい」という。

歴史は勝者が作り変える。「日本書紀」はまさにそれという。天智の死後、その遺児・大友を攻め殺し、近江朝を倒した天武が自分の即位を正当化するために自分の息子・舎人親王に編纂させた。全体の4分の1を「天武一代記」にあてているのに年齢の記述が一つも出てこない。没年の記事があるのに何歳だったか書いてない。不自然だ。書けない事情があった。実は弟ではなかった。父親の異なる兄なのだという。

天智、天武の母は宝皇女(欽明天皇の玄孫)。皇位継承権を持つ大兄皇子が3名もいたため、紛争を回避する形で2度も皇位についた女帝(皇極・斉明)。政略に利用され天智の父・舒明とは再婚している。身分の低い夫がいても不思議ではない。

井沢は言う。天智は百済が滅びるのを救うため朝鮮に出兵した。我が国初の海外派兵・白村江の戦いだが、大敗した。これは彼が百済系だったから。だが天武が天皇になると大和朝廷は一転、新羅と親交を結ぶ。これは歴史学者が一致して認める史実。天武は新羅系だった。当時の日本と朝鮮との関係は強く、渡来人の果たした影響は大きいという。

天智は暗殺という説が根強い。当時の交通の要衝・北陸路に馬で遠出、行方不明になった。残された片方の靴を葬って作られたのが平城京の外れにある前方後円墳。天皇の墳墓としては奇異なほど辺鄙な場所、それは遭難の地に鎮魂のために作られたから。

天智という名は死後、天武たちが勝手につけた。殷の「ちゅう王」の史書に出てくる「天智玉」(ネックレス)が出典。悪名なのだという。「ちゅう王」は暴虐の限りをつくした暴君の代表。民心の離れた「ちゅう王」を滅ぼしたのが周の武王。天武の名前はこの「武」王に由来するというから面白い。これを発見したのが森鴎外。。

102荷主研究者:2014/04/20(日) 01:06:49
桓武天皇が長岡京の建設が遅々として進まないことが早良親王の祟りのせいだと考え、不気味な早良親王の顔が迫ってくる小学館の漫画『日本の歴史』の名シーンは忘れられない。
藤原種継や和気清麻呂とかも出てくる面白いストーリーであった。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140411000168
2014年04月11日 23時49分 京都新聞
ありし日の長岡宮、スマホに 京都・向日市教委開発

アプリ「AR長岡宮」を用いて携帯端末を向けると、桜が咲く現実の光景に、古代の建物が浮かび上がる(京都府向日市鶏冠井町、大極殿公園)

 長岡京時代の都の姿を、スマートフォンやタブレット端末に再現できるソフトウエアを京都府向日市教育委員会が開発し、11日に公開した。史跡を歩いて端末をかざすと、大極殿や朝堂院が画面に現れて視点も移動する。AR(拡張現実)やVR(仮想空間)、GPS(位置情報)など情報技術を駆使した。カメラに映る現実の風景に、古代の建物が重なる。

 「史跡長岡宮跡復元・体感アプリ『AR長岡宮』」と名付けられたソフト機能では、端末画面の現地風景に重ね、遺構をコンピューター画像で復元する。歩く視点の変化に合わせて建物や門、回廊が360度動く。桓武天皇など歴史上の人物が画面に登場し、現地に立った人と記念撮影ができる。カレンダーや時間機能に応じて史実を解説し、廃都の一因とも伝わる「怨霊」も現れる。

 「ありし日の都が体感できるよう、ここまでの機能を備えた文化財解説のしくみは全国で初めて」(文化財調査事務所)という。

 アプリ「AR長岡宮」は、グーグルプレイなどから入手できる。スマートフォンやタブレット端末を持たない人のために、同市鶏冠井町の朝堂院公園でタブレット端末を無料で貸し出す。

103とはずがたり:2014/05/17(土) 22:14:55

三州吉田で安久美神戸神明社で後輩の結婚式があった。

安久美(あくみ)ってのは飽海であり,現在の渥美だそうな。

安久美神戸ってのはここが伊勢神宮の神領(神戸)だった事に由来するとのこと。

山形の飽海郡の由来は↓のような由来があるとのことだが,アイヌ文化圏から遠い東三河にも飽海があったとすると,アイヌ文化がここまで広まってたと云うことを示すのか?

飽海
あくみぐん【山形県】
http://www.nihonjiten.com/data/114218.html
[飽海]
庄内地方の中央を流れる最上川以北の称。川北とも呼ばれた。「アクミ」は、アイヌ語の「アツイ」(海)が転じた説、「アク(湿地)・ミ(辺)」の意とする説などがある。

104とはずがたり:2014/05/27(火) 12:05:29
>出雲大社の神事をつかさどる出雲国造(こくそう)は南北朝時代に千家、北島の両家に分かれ交代で務めた
北島家はどうなったんだ?

高円宮家:次女典子さま婚約内定
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20140527k0000e040196000c.html
毎日新聞2014年5月27日(火)11:05

 宮内庁は27日、高円宮家の次女典子(のりこ)さま(25)と出雲大社(島根県出雲市)祢宜(ねぎ)(宮司の補佐役)、祭務部長の千家国麿(せんげ・くにまろ)さん(40)=同市=の婚約内定を発表した。一般の結納にあたる「納采(のうさい)の儀」などを経て、今年秋に出雲大社で結婚式を行う。典子さまは結婚に伴い皇籍を離脱する。女性皇族の結婚は、2005年の紀宮(のりのみや)さま(黒田清子さん)以来9年ぶりとなる。

 典子さまは大正天皇のひ孫にあたる「女王(じょおう)」で、女王の結婚は戦後初めて。典子さまと母の高円宮妃久子さまはこの日午前、皇居・御所を訪れ、天皇、皇后両陛下に報告。西ケ広渉・宮務主管が婚約内定を発表した。

 同庁によると、高円宮家と出雲大社の祭祀(さいし)を担う千家家は元々家族ぐるみの付き合いをしていたが、07年4月、久子さまと典子さまが出雲大社参拝の際に国麿さんと初対面。当時、典子さまは学習院大在学中で、その後交際を深めて、結婚の話が自然と出るようになったという。

 典子さまは1988年7月、高円宮さま=2002年急逝=と久子さまの次女として誕生。11年に学習院大文学部を卒業した。新年恒例の皇居・宮殿での歌会始の儀や赤坂御用地での園遊会などのほか、今年4月にはオバマ米大統領を迎えての宮中晩さん会にも出席した。

 趣味は演劇やバレエなどの舞台芸術の鑑賞、読書など。学習院女子中・高等科では演劇部に所属し、年4回の公演もした。

 国麿さんは出雲市出身。国学院大文学部卒業後、乃木神社(東京都)、石清水八幡宮(京都府)に勤め、05年に出雲大社に移った。趣味はバードウオッチング、カメラ。父尊祐(たかまさ)さん(71)は02年から出雲大社トップの宮司(ぐうじ)を務めている。【真鍋光之、古関俊樹】

 【ことば】出雲大社

 縁結びの神様として知られる大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祭る。本殿は1952年、国宝に指定された。神社建築の最も古い様式の一つ「大社造り」で、現在の本殿の高さは約24メートル。出雲大社の神事をつかさどる出雲国造(こくそう)は南北朝時代に千家、北島の両家に分かれ交代で務めたが、明治以降は千家家が務めている。現在の千家尊祐宮司は第八十四代出雲国造。昨年5月、「平成の大遷宮(せんぐう)」として60年ぶりの大規模改修を終えた本殿にご神体を戻す本殿遷座祭が営まれた。遷宮ブームで昨年の参拝客数は過去最高の804万人に達した。

105とはずがたり:2014/06/03(火) 10:29:51
元々出雲の王は大和朝廷と対等な立場だったからやろうねぇ。

2336 名前:名無しさん 投稿日: 2014/05/28(水) 08:46:05
典子女王殿下がご婚約内定したということで、世の中はおめでたいムードに包まれております。

お相手は出雲大社禰宜の千家国麿氏ということで血筋をたどると「天照大神」という神話レベルの世界の人物が登場し
何とも日本の歴史の奥深さを感じさせられますが、皇室と出雲国造家の縁組みは実は「歴史的な事件」でもあると
ネットでもちょっとした話題となっております。

下記家系図によると出雲国造家の先祖は天照大御神の第二子である天穂日命(あめのほひのみこと)であり、
天皇家に並ぶ歴史が深い家系ということだ。出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いでいるとされている由緒正しき家系。

PHP文書『「出雲抹殺」の謎:ヤマト建国の真相を解き明かす』によると、出雲国造家は火継ぎの神事で祖神
「天穂日命の霊」を継承する、これに対し天皇家は日継ぎの神事で「天皇霊」を継承する。

日と・火、その違いが何を意味するのかはあまりに奥深すぎて我々が知る由もないが、
両者が対極の位置にあるというのは日本史において最も基本的なお約束だったようだ。

出雲大社の宮司は出雲国造家のみが祭祀を担うことが許可されており、現在も皇室の者ですら本堂に近づけないという仕来りを守り続けている。
つまり今回の婚姻である意味対極となっていた2つの家系が一つになるということは歴史上でもとんでもない事態のようだ。
今回の婚姻でその仕来りがどのようになるのかが注目される。

今回の婚姻で最も喜んでいるのは日本史オタクたちで「天皇家と出雲国造家の御縁ヤバい」「すごい歴史的な婚姻じゃないかしら。」などと大興奮の様子だ。
つまり今回の婚姻発表は実はとんでもない発表であり、日本の歴史が大きく動くものの、残念ながらあまり実感のないターニングポイントに我々は立っているのだ。
http://www.yukawanet.com/archives/4683285.html#more
http://livedoor.blogimg.jp/yukawanet/imgs/f/e/fe4c1723.jpg

106とはずがたり:2014/08/07(木) 09:14:45
なんかすげえ。地震で沈んだんかな??

沖ノ島:海底に人工的な階段や壁、広場?
http://mainichi.jp/select/news/20140801k0000m040028000c.html
毎日新聞 2014年07月31日 19時13分(最終更新 08月01日 01時29分)

 「宗像・沖ノ島関連遺産群」として世界遺産登録を目指している福岡県宗像市の沖ノ島周辺の海底に、岩礁を人工的に切り出したような垂直の壁や階段、広場のようなものが見つかり、ダイバーの間で話題になっている。

 沖ノ島は、宗像市沖約60キロの玄界灘に浮かぶ孤島。島の陸上で見つかった鏡、勾玉(まがたま)、金製指輪など約8万点が国宝に指定され「海の正倉院」と呼ばれる。島周辺には暖流の対馬海流が流れ込み、豊かな海中環境と景観がダイバーを引きつけている。

 海底で見つかった壁や階段のようなものは、島の東側に約20メートルにわたって続き、上部には20メートル四方の広場のような部分があるという。

 海底については詳しく調査されておらず、宗像市世界遺産登録推進室は「交易船の遺物などが沈んでいても不思議ではないが、階段や壁のようなものについては初めて聞いた」としている。【三村政司】

107とはずがたり:2014/08/24(日) 09:16:41
「奈良のピラミッド」に4千人行列 都塚古墳で説明会
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASG8H7K2NG8HPOMB011.html
朝日新聞2014年8月16日(土)12:26

 石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とわかった奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半ごろ)で16日、現地説明会があった。“奈良のピラミッド”を一目見ようと、約4100人の古代史ファンらが列を作った。午前10時の開始は約45分前倒しされた。

 村教委と関西大の調査で、川原石を計5段以上(高さ4・5メートル以上)、階段状に積み上げた墳丘とみられることや、東西約41メートル、南北約42メートルの方墳であることがわかった。中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗(こうくり)の古墳と類似した特異な形態や規模の大きさなどから、大きな権勢を誇った大豪族・蘇我(そが)氏の礎を築いた稲目(いなめ、?〜570)の墓との説が出ている。

 見学者らは、村教委の西光(さいこう)慎治調整員の説明を聞きながら、白いテントで覆われた階段状の遺構や横穴式石室を熱心に見た。午前6時40分に一番乗りした大阪府東大阪市の会社員、伊藤邦彦さん(59)は「階段状の古墳に感動した。(稲目の息子の)蘇我馬子(うまこ)の墓とされる石舞台古墳を見下ろす場所にあり、稲目の墓だとしたらすごい」と話した。

108とはずがたり:2014/08/24(日) 09:18:23
蘇我氏の吉備進出?!

奈良・都塚古墳に似た「階段ピラミッド状」、岡山にも?
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140822526.html
産経新聞2014年8月22日(金)14:03

 蘇我稲目(いなめ)の墓の可能性が高く、特異な階段ピラミッド状の古墳とわかった奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。これによく似た古墳が岡山県北部の真庭(まにわ)市にある。平成5年などに調査された「大谷1号墳」(7世紀後半、国史跡)で、5段築成の見事な方墳だ。

 大谷1号墳は都塚古墳から約100年あとにつくられた古墳。昭和63年と平成5年に発掘調査が行われ、平成7年に墳丘が復元された。

 3段の方形墳丘部と前面2段の方形壇から成り、規模は東西12・9メートル、南北22・7メートル、最大高7・3メートル。全長6メートルの横穴式石室を持ち、内部には陶棺がおさめられていたとみられる。

 発掘調査では双龍環頭(そうりゅうかんとう)大刀(長さ約1・1メートル)や、儀式用の武具「儀仗(ぎじょう)」の頭部と推定される金銅製品など、豪華な副葬品が出土。吉備(きび=現在の岡山県)を治めるため大和朝廷が派遣した「吉備大宰(たいさい)」(吉備総領)の墓とも考えられている。

 だが真庭市教委によると、大谷1号墳は斜面にあり、後側には階段状の構造がないという。都塚古墳のように、全面が階段状の造りとは異なっている。

109とはずがたり:2015/05/02(土) 06:09:59
天台宗は密教ではなかったのか。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AF%86
日本天台宗と密教

天台宗は法華経を所依、つまり根本経典としているため、顕教(釈迦が一般にわかりやすく説いた教え)とされているが、最澄(伝教大師)は天台教学とともに、密教(中期密教)・禅(北方禅)・念仏(浄土教)を日本に持ち帰っており、さらには9世紀の中ごろ円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)が唐に渡って中国密教を本格的に学んだことから、日本の天台宗は密教を包含した。日本天台宗に伝わる密教を台密と呼ぶ。

110とはずがたり:2015/06/22(月) 12:45:56
渡辺綱の威光すげえw
因みに金太郎も大人になって頼光の四天王になって酒呑童子退治してた筈。
鬼も鬼だ。渡辺でもせめて名前が漢字一文字の奴(嵯峨源氏の特徴)以外は襲っておけよww

【衝撃事実】全国の渡辺さんは節分で豆まき不要! 伝承により証明されている
http://getnews.jp/archives/1009644
DATE:2015.06.21 20:55 バズプラスニュース Buzz+

2月3日は節分の日ですよね。皆さんも「鬼は外! 福は内!」と言いながら、豆まきをしたことがあるのではないでしょうか? 豆を投げることで鬼(邪気)を追い払い、幸せを願う行司です。

・豆まきをする必要がありません
家族でやっても楽しいですし、同僚と、同級生と、リア充仲間とやっても楽しいですが、渡辺さんだけは、豆まきをする必要がありません。渡辺さんは、節分でもいつもと変わらず普通に生活しましょう。

・渡辺さんに腕を切り落とされた鬼
伝承によると、鬼の中でも戦闘力が高い「酒呑童子」を追い払った人物こそ、渡辺さんだったのです。命からがら逃げてきた酒呑童子は、渡辺さんを恨み、改めてブチ殺しに行きましたが、返り討ちに遭い、腕を切り落とされてしまいました。

・渡辺さんには鬼はやってこない
なんとか逃げ切った酒呑童子は、鬼の仲間たちに「渡辺ってすげぇ強いヤツがいるから手を出すんじゃねーぞ! 見てみろ、俺の腕を!!」と話し、鬼の間で「渡辺はヤバイ」ということになったそうです。つまり、渡辺さんには鬼はやってこないので、豆まきしなくてもよいのです。

・渡部渡邊渡邉でも同様
渡辺という漢字でなくとも、渡部、渡邊、渡邉などでも同様です。皆さん豆まきの必要はありません。しかし、旧姓が渡辺の人は効力が消えているので、豆まきの必要があると思われます。

111とはずがたり:2015/09/30(水) 13:35:52
古代東洋史も此処にしよう。

中国人はなぜルールを守らないのか?3000年前の石碑が伝える真実―中国
レコードチャイナ 2015年9月29日 19時57分 (2015年9月30日 13時22分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150929/Recordchina_20150929054.html

25日、新華毎日電訊は記事「中国人はなぜ道理に従わないのか」を掲載した。ルールを守らず、道理に従わない中国人。その背景には数千年間変わらない社会の構造があるという。(Record China)

2015年9月25日、新華毎日電訊は記事「中国人はなぜ道理に従わないのか」を掲載した。

ある友人が列に並んでいると、割り込もうとする一団にでくわした。「恥ずかしくないのか」と問い詰めたところ、「今のご時世、恥なんか気にするものか」との反論。中国ではこうした話は日常茶飯事だ。誰も道理に従おうとしないのだ。

いつから中国はこうなったのだろうか?興味深い話がある。陝西省から発掘された、約3000年前の石碑に次のような記録が残されている。ある下級官僚が上司が不正に自分の財産を奪っていると、上級政府に訴えた。政府は事件を解決するためにある官僚を派遣したが、不正をただすどころか、上級政府に訴えた下級官僚の越権行為を批判し罰金を取ったのだった。この「勝利」を喜んだ上司がわざわざ石碑に話を残し、現代にまでこの物語が伝わっている。

問題があっても裁判など調停による解決ができない。お上に頼っても公平な裁きが得られるとは限らない。数千年間続く中国社会が中国人特有の思考を作り上げている。道理を正そうとせず、無実の弱い者に面倒を押し付けてしまうのだ。そうであるがゆえに、自分の間違いを認めるわけにはいかない。公正な裁きがないのに自分から間違えを認めても損をするだけだ。

文明と知識は歴史とともに蓄積されていくもの。今の中国に蓄積がないのは私たちの責任ではなく、ご先祖のせいだと言えるかもしれない。だが今積み重ねを始めなければ、未来の中国人は現在の中国人をののしることになるだろう。(翻訳・編集/増田聡太郎)

112とはずがたり:2016/05/29(日) 21:07:11

あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ ここまでわかった!「日本史」の最新常識
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%81%82%e3%81%ae%ef%bd%a2%e8%81%96%e5%be%b3%e5%a4%aa%e5%ad%90%ef%bd%a3%e3%81%8c%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a7%bf%e3%82%92%e6%b6%88%e3%81%99%e3%83%af%e3%82%b1-%e3%81%93%e3%81%93%e3%81%be%e3%81%a7%e3%82%8f%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%ef%bc%81%ef%bd%a2%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%8f%b2%ef%bd%a3%e3%81%ae%e6%9c%80%e6%96%b0%e5%b8%b8%e8%ad%98/ar-BBtrOeb?ocid=spartandhp#page=1
東洋経済オンライン
山岸 良二
2016/5/24

 かつて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けてきた『大学への日本史』である。

 作家の佐藤優氏も、外交官時代、「座右の書」として肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた。その学習参考書が今回、装いも新たに『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』、『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。

 特長は、リニューアル復刊にあたって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容にはなかった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ、「いま使える内容」になっていること。

 本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介していく。

 誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」。ところが近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼすほどに拡大しています。教科書を見ても、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。

 いったい「聖徳太子」はいたのか、いなかったのか? よく聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。

Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?
 いました。でも、その前にひとつ確認しておきましょう。「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、「いた」となります。

Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。
 ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。

 たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。
 「厩戸王(うまやとおう、574〜622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。

Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?
 彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。

 冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
 聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。

 もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

113とはずがたり:2016/05/29(日) 21:07:26
>>112-113
Q6. 憲法十七条はあったのですか?
 ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。

Q7. 冠位十二階はあったのですか?
 ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。

Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?
 ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。

 遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
 わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

 厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。

 そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。

 こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

 後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。

 今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。

 (旧)聖徳太子 → (新)厩戸王(聖徳太子)

 現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)でも、「厩戸王(聖徳太子)」と表記されていますが、次の教科書検定で改訂されるときには、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます(脚注では言及される見込みです)。

 今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられていくことでしょう。

Q.ありがとうございました。最後に、「10人の話を〜」は本当ですか?

 10人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「10人の話を1人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った」というのがどうやら実態のようです。いずれにせよ、こうした伝説が後世、より彼(聖徳太子)のイメージを肥大させることとなった一因でしょう。

 一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も、非常に優秀な人物だったことはまず間違いありません。


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