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古代日本史スレ

135とはずがたり:2017/12/08(金) 16:45:16
大学受験日本史選択者必修の螺鈿紫檀五弦琵琶だ♪
楊貴妃が送ったもんだとは知らんかったぞ。。(;´Д`)

嬉しいやら恥ずかしいやら・・・1300年前に楊貴妃が天皇に贈ったプレゼントが、今も大切に保管されている!=中国メディア サーチナ 2017年12月8日 09時12分 (2017年12月8日 16時25分 更新)
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171208/Searchina_20171208016.html

中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。(イメージ写真提供:123RF)(サーチナ)


 中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。

 記事は、奈良・東大寺の正倉院にある宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶」について紹介。「天皇が1300年に渡り密やかに所蔵してきた宝物。唐の玄宗皇帝と楊貴妃が聖武天皇に贈ったプレゼントが、現在に至るまで完全な形で保存されているのである」と説明した。

 そのうえで、8世紀中期に建てられた正倉院には聖武天皇が生前愛した貴重品が保管されており、その多くは日本の遣唐使や留学生が持ち帰った書画、仏経典、楽器、生活器具、薫香、服飾品、織物、刺繍などであるとした。また、価値の高い唐代の芸術品を最も完全な形でかつ豊富に残しているということで「専門家が、唐の建築や文化財を見たいのであれば奈良に行くべき。唐の気風を見ることができるのは世界で日本だけだと言うのもうなずける」と伝えている。

 また、正倉院自体が幾多の戦乱をくぐりに抜けて現存していることについて「世界の建築史において、これほど古い木造建築が残っているというのは奇跡なのだ」と評した。そして「日本にある正倉院の宝物からは、中華文化絶頂期の面影を見ることができる。これらはすでに全人類共通の文化遺産になっているのである」としている。

 中国のネットユーザーからは「奇跡だ。日本の天皇が愛したものは代々伝わり、中国の皇帝が愛したものは地下に埋葬されてしまう」、「行ってみれば分かるけど、日本では本当にわれわれの唐や宋の文化を見ることができる」、「本当に恥ずかしい。日本は唐の優れた物を残して伝えたのに、中国ではどれだけの民間工芸が途絶えてしまったことか」、「唐代の物を見るのに日本に行かなきゃいけないって、恥ずかしいだろ」といったコメントが寄せられた。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)

136とはずがたり:2018/06/18(月) 13:39:02

芳野監
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E9%87%8E%E7%9B%A3

芳野監(よしののげん)は、8世紀の日本で吉野地方に設けられた特別な地方行政区分、機関である。畿内に含まれる。領域は現在の奈良県南部にあたる。


芳野監の位置(716年頃)
沿革
大和国の吉野郡を分立させて設けられた。『律書残篇』によると、芳野監は“郡二、郷三、里九”とある。『律書残篇』の大倭国(大和国)の郡数は14(当時の大和国の郡数は吉野郡を入れて15)となっているため、吉野郡が2つの郡に分けられたと思われる。設置時期は不明だが、和泉監が設置された霊亀2年(716年)に近い時期と思われる。

続日本紀の天平五年(733年)1月27日条に「芳野監」が初見する。国でなく、監という機関になったのは、この地にあった吉野宮の管理にあたる役割があったためと推測されている。前述の通り芳野監の設置は吉野宮を管理するためという理由であるが、古来より吉野は万葉集に「見れど飽かぬ吉野」、「雲居にそ遠くありける」などと詠まれており、大和国とは別の遠国と意識されていた。

天平10年(738年)から嘉祥元年(848年)までの間に廃止されたが、廃止時期も和泉監が廃止された天平12年(740年)頃であろう。


和泉国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%9B%BD

『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮(ちぬのみや)、茅渟宮(ちぬのみや)、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる[1]。国と異なる特別な機関だが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである[2]。

その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。

137とはずがたり:2018/07/10(火) 11:31:01
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/1367

まじかー,讃良は当然さららと訓(よ)むもんだと疑わなかったが近世以降は<ささら>と訓んでたらしい。さらら→ささら→さんらと変化したのか。
因みにさっきメールしたのはさらさ嬢♪仕事メールだけどな。

更に因みに相楽(郡名)も当然の様に現代では<そうらく>と訓むが,地名では<さがなか>と訓む。

讃良郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83%E8%89%AF%E9%83%A1

古代
和名類聚抄には「佐良良」という訓が記載されており、古くは「さらら」と読んだ。持統天皇の名「?野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。「さらら郡」には更占郡などの表記もある。のちに「さら郡」という読みが現れ、近世以降はもっぱら「ささら郡」と読まれる。

木津川市相楽
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92619-0222+%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%B8%82%E7%9B%B8%E6%A5%BD/data=!4m2!3m1!1s0x60013c678d0ee25b:0xdf6b7f7a0d0ac4bc?sa=X&ved=0ahUKEwjzh_mrvpPcAhUCULwKHWBnB74Q8gEIJzAA

138とはずがたり:2018/09/02(日) 23:48:04
日下についての議論は読み応え有った。

スズメ♂古代史「覚え書き」

2011年9月26日月曜日
メインサイトの引越しについて
http://szmkodai.blogspot.com/2011/09/blog-post_26.html

2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
http://szmkodai.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

139とはずがたり:2018/09/25(火) 10:14:24

足利先生が出てくるが私が選択したのは青木先生の人文地理だった。神戸の震災を予言するなど俺の中でカリスマの青木先生だけど足利先生の授業も受けたかったな。

スズメ♂古代史「覚え書き」
2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
http://szmkodai.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

140とはずがたり:2018/09/28(金) 19:34:22
光明皇后ゆかりの経典だった…来場の研究者指摘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180928-OYT1T50100.html?from=y10
2018年09月28日 17時41分

 聖武天皇の妻・光明皇后(701〜760年)が、両親の冥福めいふくを願って写経生に書き写させた経典「一切経」の1巻が、高野山真言宗の古刹こさつ・法道寺(堺市)で見つかった。堺市博物館などが確認した。4年前に展示していたが、調査し直したところ、皇后ゆかりの写経とわかった。

 「雑阿含ぞうあごん経巻第三十六」(縦約27センチ、横約10メートル51)。巻末が切り取られ、そこに書かれていたとみられる願い事や願い主、写経の日がわからず、市博物館は2014年に展示した際に「平安〜鎌倉時代の経典」と説明していた。

 展示を見た研究者から、「光明皇后の経典では」と指摘を受け、市博物館などが調査。文字がやや平らで整った書体、「言偏」の第2画が長いなどの特徴が、奈良国立博物館(奈良博)に寄託されている重要文化財「雑阿含経巻第三十九」などと類似していることから、これらと同様に、743年(天平15年)5月11日の日付をもつ「五月十一日経」の1巻と判断した。

(ここまで426文字 / 残り217文字)
2018年09月28日 17時41分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

141とはずがたり:2018/10/16(火) 08:18:44

宮内庁
仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/220000c
毎日新聞2018年10月15日 14時02分(最終更新 10月15日 18時47分)

 宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。

 大山古墳は全長約500メートルで、三重の濠(ほり)が巡る。宮内庁は仁徳天皇の墓として管理するが、学術的には未確定。調査は10月下旬〜12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。

 宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。考古学界は陵墓の公開と保全を訴えており、宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。今回、一般向けの現地説明会はないが、速報展や講演会の開催を検討しているという。

 宮内庁の陵墓管理委員会で委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は「古墳全体を保存活用する上で地元や研究者の協力は欠かせず、今回の共同発掘は重要な一歩だ。陵墓の公開に向けても歓迎できる」と評価した。堺市は大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している。【矢追健介】

142とはずがたり:2018/10/16(火) 22:52:47
嵯峨天皇や後鳥羽上皇辺りと並んで宇多天皇大好きなんだけど猫派だったのかー。。

【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】
https://matome.naver.jp/odai/2139027691598380601

143名無しさん:2018/10/17(水) 00:33:18
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/286932

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10/17曇り




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邪馬台国はどこ?吉野ケ里で考古学フォーラム
10/10 9:26

畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
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 邪馬台国について考えるフォーラムが7日、吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園で開かれた。近年の考古学研究成果を基に有力候補地について意見を交わした。

 福岡県久留米市文化財保護課長補佐の白木守さん、奈良県桜井市教委文化財課長の橋本輝彦さん、佐賀女子短大名誉教授の高島忠平さんが講演した。九州説では墳墓や山城、集落などを、近畿説では弥生土器の編年と古墳の規模・形状などを根拠とすることを説明。決め手となる文字史料が見つかっていない点も言及した。

 中国の歴史書、魏志倭人伝に記された邪馬台国の集落について「環濠(かんごう)集落を思わせるが(卑弥呼の時代に)九州では増えるが、近畿では無くなる」と高島さん。白木さんが「卑弥呼の居住地であれば環濠はあってしかるべき」とする一方で、橋本さんは「同一様式の土器が大量に使われ、一つの水系に位置する点で奈良盆地が有力地」と答えた。

 フォーラムは同公園管理センターと県立博物館が、開催中の特別企画展「よみがえる邪馬台国 倭人伝の道6」(11月11日まで)に合わせて開き、約130人が聴講した。

144名無しさん:2019/02/15(金) 21:25:41
ふむ

145とはずがたり:2019/03/28(木) 09:45:07

確かに熊野詣では盛んだったが伊勢には娘派遣しながらも本人は行かなかったのか。確かに聞いたことないな。

なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1042186169.html
2015年10月09日

146とはずがたり:2019/03/28(木) 09:47:18

二所宗廟なんて言い方があるなんてしらんかった。

道鏡の宇佐神宮神託事件も重い神託だったんだな。

大和朝廷の九州・大和複合体制を示唆するのではないか。邪馬台国は両方にあった,でええやろ。

二所宗廟とは?
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1045455576.html
2015年11月21日

伊勢神宮と石清水八幡宮、古代は宇佐神宮とも、謎多き伊勢と八幡神の二地
二所宗廟
二所宗廟(にしょそうびょう)とは、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟のことで、伊勢の神宮(伊勢神宮)と石清水八幡宮の二つの神社を指す。ただし、石清水八幡宮は、遠国の宇佐八幡(現 宇佐神宮)に代わって指定されたふしもあり、石清水八幡宮=宇佐神宮であり、二所でありながら、三つの神社と考えた方がよい。

147とはずがたり:2020/05/06(水) 20:39:12
!?

坂上田村麻呂黒人説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82%E9%BB%92%E4%BA%BA%E8%AA%AC
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

148荷主研究者:2020/06/20(土) 23:09:20

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20200327/CK2020032702000026.html
2020年3月27日 中日新聞
「遠江国分寺史跡」 磐田市が再整備計画
◆木装基壇復元が目玉

国の特別史跡「遠江国分寺史跡」=磐田市で

 磐田市は、同市見付・中泉にある国特別史跡「遠江国分寺史跡」の再整備計画の全容をほぼ決めた。最も特徴ある木装基壇と呼ばれる伽藍(がらん)の土台を復元する計画があり、専門家からの注目を集めそうだ。約三ヘクタールの敷地に低木を植栽し、市民の憩いの場にもする。二〇二〇年度から工事を順次進め、二五年度末の完成を目指す。

 遠江国分寺は聖武天皇が七四一(天平十三)年、国家鎮護のため建立を命じ、全国約六十余カ国に造営されたうちの一つで、国特別史跡の国分寺は国内に三カ所だけ。

 木装基壇は、土をたたき締めて積み上げた建物の基礎。二〇〇六〜一四年の発掘調査で、敷地内の金堂や七重塔、講堂、回廊、僧坊といった各施設に用いられていたことが国内で初めて確認された。

 計画によると、木装基壇には耐用年数が長い特殊加工を施した木材を使用。施設ごとに地面からの高さが二十〜七十センチほどの基壇に仕上げる。各施設を順番に歩いて巡れる歩道を設け、透水性や耐水性の高い舗装を施す。現在は市役所駐車場として使われている約二千平方メートルの隣接地も計画に加え、公園化する。

 敷地内にある国有地を無償譲渡してもらう手続きを進めており、本格的な工事は二一年度に開始する。約八億円を投じて、一年ごとに約一ヘクタールずつ整備し、あずまや三棟やトイレも設置する。

 遠江国分寺は文献や資料がないため、大学の名誉教授の推察や、同時代の寺院を計画立案の参考にした。

(宮沢輝明)

149荷主研究者:2020/10/11(日) 10:58:24

https://www.sakigake.jp/news/article/20200828AK0020/
2020年8月28日 秋田魁新報
大溝跡、さらに160メートル 払田柵跡、朝廷の威光示す?

 秋田県大仙市と美郷町にまたがる国指定史跡「払田柵跡」で、政庁があった長森丘陵の外周のほぼ全体に大きな溝(大溝)跡があることが確認された。県教育庁払田柵跡調査事務所(大仙市)が1990年代から断続的に行ってきた発掘調査で判明した。大溝の役割について事務所は「朝廷の威光を蝦夷らに示そうとした可能性も考えられる」としている。

 払田柵は、9世紀初頭から10世紀後半に東北日本海側に置かれた出羽国の地方官庁。政庁がある長森丘陵は築地塀(ついじべい)や材木塀(外郭)で囲まれ、西側の真山丘陵と併せた周囲にも材木塀(外柵)が巡らされていた。

 事務所は、1990年代の調査で長森北側の外郭外側に幅3〜4メートル、深さ約1メートル、長さ約500メートルの溝跡を確認。さらに2011〜19年度に、城柵正面の南門周辺にも長さ計約230メートルにわたって溝跡が存在することが分かった。長森北側の溝跡の東端と南門周辺の溝跡の東端は、いずれも外郭に沿って流れる川に接続していたとみられる。

 溝の底には十和田噴火(915年)の火山灰がたまっており、それ以前に掘削されたと考えられるという。

 今年6月から行っている本年度の発掘調査では、2019年度に確認した溝跡から、外郭と平行してさらに西に約160メートル延びていることが分かった。端は真山丘陵との間を流れる川に接続。これにより、一部で川を利用しつつ、外郭全体が大溝で囲まれていたことが分かった。

 事務所は、大溝の役割を解釈する上で当時の時代背景が重要だとみる。出羽国では878年、秋田城駐在国司の強引な政治に反発したとされる蝦夷が秋田城を焼き打ちした「元慶(がんぎょう)の乱」が勃発。この16年後に朝廷が蝦夷の攻撃に備え国司に城の警護を命じた文書が残るなど、緊迫した情勢が続いたという。

 一方で、大溝は敵の襲来を防御できるほど大規模ではないことや、造成後に手入れされた形跡がないことが分かっている。こうした状況を受け、谷地薫文化財主査は「大溝が造られた当時、外柵は既に朽ちていた。大溝によって蝦夷や農民らに朝廷の権力を知らしめようとしたのではないか。造成自体も威力を見せつける大事業となったという見方もできる」と語る。

 事務所によると、これまで出羽国では城柵全体を囲んだ溝跡は確認されていない。今後、発掘調査の結果を基に、資料や他県の城柵に残る溝跡などを調べ、大溝造成の目的を研究する。谷地文化財主査は「大溝の役割が明らかになれば、出羽国の対蝦夷政策の理解につながる可能性もある」と期待している。

150荷主研究者:2021/02/04(木) 22:45:27
「皇朝十二銭」…懐かしい!

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=715673&comment_sub_id=0&category_id=112
2021/1/7 16:01 中国新聞
平安テクノ都市、全容の解明着々 山口の周防鋳銭司跡、相次ぐ新発見

新たな発見が期待される周防鋳銭司跡=昨年12月(撮影・山下悟史)

「長年大宝」の鋳損じ銭

銅を溶かす際に使った「るつぼ」

炉に風を送った「鞴羽口」

紙の文書を巻き付けた「題箋軸」

 平安時代の貨幣鋳造所で、山口市南部の鋳銭司地域にある国史跡「周防鋳銭司跡(すおうのじゅぜんじあと)」。朝廷が発行した「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」のうち8種類を製造した記録が残るが、実態は謎が多い。市は史跡を「古代テクノポリス」と位置付け、1965年から6度にわたって発掘調査をしてきた。これまでに2種類の貨幣や大型建物跡を確認。全容の解明が期待される。

 周防鋳銭司は825年に設置され、約200年間稼働した。最盛期は年1100万枚の製造目標を掲げ、80人以上が働いた。当時、国内の銭貨のほとんどを周防鋳銭司が造っており、造幣の歴史を知る上で貴重な遺跡として1973年、約3万8千平方メートルが国史跡に指定された。

 2017年からは山口大と共に調査している。18年に「長年大宝(ちょうねんたいほう)」、昨年は「承和昌宝(じょうわしょうほう)」を特定した。いずれも製造過程で失敗した「鋳損(いそん)じ銭」で、本来は溶かして再利用されるが、何らかの理由で取り残された。等間隔に並ぶ直径1メートルの柱穴も発見し、倉庫や管理棟などの大型建物だった可能性があるという。

 ほかにも銅を溶かす際に使った器「るつぼ」や炉に風を送る「鞴羽口(ふいごはぐち)」が見つかり、鋳造所の存在を裏付けた。紙の文書を巻き付けた木製の「題箋軸(だいせんじく)」も出土し、文字の読み書きができる役人の存在をうかがわせる。

 これまでの調査は史跡面積の約1割にとどまる。市は今後も山口大と連携する意向で、将来は出土品を紹介する施設や歴史公園の整備も視野に入れる。渡辺純忠市長は「調査にはまだまだ長い時間を要する。これからも発掘を進め、多くの人が訪れる観光資源にしたい」と意気込む。(中川晃平)

151とはずがたり:2021/02/12(金) 22:22:18

https://twitter.com/mitsusato_/status/1359918242005884931
山田実理 ??? ????
@mitsusato_
「日本」という呼び方は中国が東方の小国を呼ぶ一般名詞的な呼び方で、百済をそう呼んでる記録もある。それを倭国が国号として採用し、周の武則天に許可を貰った。ここいらは既に研究者も指摘している話。古い漢籍にも日本以外の「日本」が出てくる。倭国が最も東にあったから名乗ったのだろう。

152名無しさん:2021/02/28(日) 06:29:32
古代世界史

https://news.yahoo.co.jp/articles/c99415cfcda4384864e19a45ff4dbc137262e72f
北米最古の犬の骨がアラスカで見つかる、人類拡散の旅路を示唆
2/27(土) 18:05配信
ナショナル ジオグラフィック日本版

文=Robin George Andrews/訳=三枝小夜子

最終更新:2/27(土) 18:05
ナショナル ジオグラフィック日本版

153名無しさん:2021/03/15(月) 14:26:31
古代世界史

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0993038d8d5e7adf9492c3c1c569615c61b7f3d
集団処刑か? 多くは血縁関係になく、犯人や動機は謎のまま、クロアチア
 約6200年前、現在のクロアチア東部にあたる場所で41人以上の男女と子どが虐殺され、大きな墓穴に投げ込まれた。2007年にこの墓を発見した考古学者たちは当初、血縁関係にあるコミュニティの全員が処刑されたのだろうと考えた。

 しかし、3月10日付けで学術誌「PLOS ONE」で発表された新たな分析結果によれば、ほとんどの犠牲者たちには血縁関係がなかったことが明らかになった。この分析では、古代の大量虐殺の調査としてはかつてない規模の遺伝子研究が行われた。

 この意外な発見からは、さらなる疑問が浮かび上がる。最も重要なのは、なぜ犠牲者たちが殺されたのか、そして、誰が殺したのか、という点だ。

「それは最大の難問です」と論文の筆頭著者マリオ・ノバク氏は話す。氏はクロアチアのザグレブにある人類学研究所の考古学者だ。「正直なところ、私たちにはよくわかりません」と言うノバク氏は、何か明確な考古学上の証拠が近くで発見されない限り、「これからも解明できないでしょう」とつけ加えた。

車庫の下に墓が
 この古代の集団墓地はクロアチアのポトチャニ村にあり、車庫の建設中に偶然、発見された。直径約2メートル、深さ約1メートルの墓穴には、少なくとも41人分の骨の残骸があった。まだ関節でつながっている骨もあれば、ばらばらになっている骨もあった。

 当時、たまたまその地域にいたザグレブ大学の考古学チームの学者たちが現場に呼ばれた。考古学者たちは、これらの遺骨は現代の戦争の犠牲者で、おそらく第二次世界大戦か1990年代のユーゴスラビア紛争の犠牲者だろうと考えた。だが、最初の調査で銃弾も軍服も見つからず、歯には現代の歯科治療による詰め物もないことがわかった。

 さらに発掘調査を行うと、古代の陶器の破片が見つかったうえ、3つの人骨の放射性炭素年代測定により、この墓が6200年前のものであることが明らかになった。年代と場所、発見された陶器の種類から、犠牲者たちはラシニヤ文化の人々であると結論づけられた。

 ノバク氏によれば、ラシニヤ文化の人々についてはほとんどわかっておらず、この文化に関連する墓地遺跡は、クロアチアではここ以外にもう1つしか発掘されていない。「この地方でもっとも研究が遅れている先史時代文化のひとつです」と氏は言う。その別の墓地遺跡の調査結果から、ラシニヤ文化の人々は牧畜の民であり、牛を連れて季節ごとに放牧地を移動していたほか、銅を採掘して道具を作っていたと推測されている。

 生物考古学調査によって、男性21人、女性20人の人骨が特定された。50歳位の成人や、若者、わずか2歳とみられる子どもたちも含まれていた。死因が自然死ではないことはすぐに明らかになった。

 成人男性3人、成人女性4人、子ども6人は、頭蓋骨の側頭部や後頭部に、鈍器による骨折、刺し傷、貫通した傷、切り傷などの損傷があった。こうした致命傷には、石斧やこん棒、金属製の道具が使用されたとみられている。凶器は発掘現場からは見つかってないが、犠牲者の傷は、一度の事件で加えられたとみられている。

 とりわけ痛ましいのは、一部の頭蓋骨に複数の傷があることだ。「命を奪うには一撃で十分なはずです」とノバク氏は指摘する。「でも、頭蓋骨に4つも傷を負っている人が2、3人いました。過剰で狂気的だと言ってもいいでしょう」

154名無しさん:2021/03/15(月) 14:26:51
>>153

暴力の歴史
 不明な点が多いものの、この虐殺が戦闘によるものではないことは明らかだ。戦闘であれば、集団墓地に埋葬されるのは若者や成人の男性がほとんどで、女性や子どもは埋葬されないからだ。また、犠牲者の顔面や前腕には傷がなかった。攻撃を避けようとする人は、本能的に腕を上げて身を守ろうとするので、前腕に傷が残るものだ。したがって、犠牲者たちはしゃがんだ姿勢かひざまずいた姿勢で手を縛られ、身動きがとれない状態だった可能性が高い。

「彼らは身を守るすべがなかったのです」とノバク氏は言う。「これは、あらかじめ計画された集団処刑と考えられます」

 ヨーロッパ先史時代の大量虐殺が明らかになったのは、このポトチャニが初めてではない。例えば、ドイツのハルバーシュタットにある約7000年前の集団墓地には、後頭部を殴打されて殺された犠牲者が多数埋葬されている。

「頭蓋骨の傷は、傷の位置や犠牲者の年齢の幅などの点で、私が調査した他の悲惨な大量虐殺とよく似ています」と、英ケンブリッジ大学の骨学者・古病理学者のトリッシュ・ビアーズ氏は話している。氏は今回の研究には参加していない。

 ポトチャニで発見された犠牲者についてさらに情報を得るために、調査チームは発掘現場から入手した38人分のDNAを分析した。その結果、全員が同じ遺伝的祖先を持つことがわかった。調査した犠牲者の祖先は、ごく一部は西ヨーロッパの狩猟採集民社会から来ていたものの、大半は現在のトルコの大部分を占めるアナトリア出身だった。彼らは8500年ほど前に初めてヨーロッパに農耕を持ちこみ、数千年後、子孫の一部が牛を連れてバルカン半島を移動するようになった。

 DNA分析で1人の男性とその娘2人、甥1人が特定されるなど、犠牲者のうち数人は近い血縁関係にあることが確認された。しかし、7割の人々にはそうした関係がないことも判明した。こうした結果から、彼らは、多くの家族で構成される大規模なコミュニティに属していたとも考えられる。

幻の加害者
 ビアーズ氏が行った南北アメリカにおける考古学調査では、遺伝子レベルでは必ずしも血縁でない人々が、漁師、農耕民、職人など職業ごとに社会的集団を形成したことが明らかになっている。

 だが社会的集団の関係性は「遺伝学では把握できません」と、ケンブリッジ大学で古代DNAを専門とする考古学者のクリスティアーナ・シャイブ氏は言う。氏も今回の調査には参加していない。虐殺によらない埋葬墓がほかにあれば、この地域の通常の集団について遺伝的な観点から知ることができるだろう。残念ながら、これまでのところ、ポトチャニの遺跡はこの集団墓地だけであり、近隣に集落の跡も発見されていない。

 加害者については、まったく不明だ。「この残虐な行為を実行した人々については、何の痕跡もありません」とノバク氏は言う。加害者たちは、どこか遠方または近隣の敵対するグループに属していたのかもしれないし、犠牲者たちと同じコミュニティにいたのかもしれない。

 殺害の動機についても手がかりがない。ヨーロッパ先史時代における他の大量虐殺の遺跡や事例では、干ばつによって資源不足に陥った後に暴力行為が発生したとみられるものがあり、排他主義や気候変動といった対立を生む要素が原因になったことがわかる。「しかし、当時のポトチャニで気候変動が起きていたことを示す証拠はありません」とノバク氏は話す。

 だが、ひとつだけ明白なことがある。それは、こうした邪悪な人類の行為が何千年も続いてきたということだ。大量虐殺は、1万3000年以上にわたって世界各地で行われてきた。司法制度が導入され、社会全体の秩序が整い、暴力的な風潮は衰退したものの、斧に代わって銃が使用されるようになり、部族間の争いに代わって国家主導の集団殺害が行われるようになるなど、大規模な虐殺はますます容易に実行できるようになっている。

 ポトチャニで見つかったような集団墓地が私たちに何かを教えてくれるとしたら、それは、「この1万年の間、人間は変わっていないということです」とノバク氏は言う。「変わったとしても、それは悪い方への変化なのです」

文=ROBIN GEORGE ANDREWS/訳=稲永浩子

155とはずがたり:2021/07/19(月) 09:30:56

縄文人の家、「茅葺き」から「土屋根」へ 研究30年の成果
https://www.sankei.com/article/20210718-M6ILDY3F35LSVNRV5QOVOK4T2U/
2021/7/18 08:00
寺田 理恵

かつて近世の古民家のような茅葺きに復元された縄文時代の住居が、土をかぶせた屋根に変わってきた。発掘調査に基づいており、新たに復元整備される遺跡では土屋根が主流になるとみられる。31日まで開催中のユネスコ世界遺産委員会では、土屋根が複数箇所で見られる「北海道・北東北の縄文遺跡群」が登録される見通し。縄文集落の景観イメージは大きく変わりそうだ。

まるで土饅頭
裏側から見ると、まるで土饅頭だ。「北海道・北東北」を構成する17遺跡の一つ「入江貝塚」(北海道洞爺湖町)の復元住居は土で覆われ、従来の茅葺きとイメージを大きく違える。「風が入らず、保温性が高い」(同町教育委員会)という。

茅葺きのイメージがあるのは、現在見られる復元住居の多くが茅葺きのためだ。縄文や弥生時代の家は、地面を掘りくぼめて複数の柱を立て、その上に屋根を掛けた半地下式の竪穴住居。床のくぼみや柱穴は全国で見つかっているが、失われた屋根は遺物などから推測して復元される。

茅葺きは戦後間もなく、弥生時代の集落・水田跡「登呂遺跡」(静岡市)などで竪穴住居が復元された際に採用されたが、当時は屋根の素材が分かっていなかった。

登呂遺跡では水田と集落が一体となって確認され、考古学ブームが発生。教科書にも載せられ、水田稲作のイメージとともに茅葺きも定着した。埋蔵文化財は地表に建物がなければ集客が難しい。各地の遺跡で茅葺きを参考に復元整備が行われた。

住居跡の焼土が物証に
土屋根の可能性が高まったのは、ここ30年余りの発掘や研究の成果だ。「北海道・北東北」の一つ「御所野遺跡」(岩手県一戸町)で平成8年に行われた焼失住居跡の調査では、焼け残った柱や屋根材と焼土の堆積状況から全国で初めて縄文時代の土屋根住居を確認。樹皮の下地に土をかぶせた土屋根が復元された。


御所野縄文博物館の高田和徳館長は茅葺きのイメージが根強い要因を「全国の焼失住居跡の調査で茅は出土量が少ないことが分かっているが、茅葺きで復元したものを変えるには費用がかかるため各地でそのまま残っている」と指摘する。

大型掘立柱建物で有名な縄文の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(青森市)の復元住居は茅・樹皮・土の3種類で葺かれている。同遺跡センターによると、平成7年から復元が進められ、土屋根は14、15年度に計5棟が整備されたという。

「今後も増える」
土屋根は「北海道・北東北」以外の縄文遺跡でも「北代遺跡」(富山市)「宮畑遺跡」(福島市)「勝坂遺跡」(相模原市)など各地に広がっている。

「梅之木遺跡」(山梨県北杜市)では、平成30年から年1軒ペースで復元が進む。同市教委の佐野隆参事は「茅葺きか土屋根かではなく、年間を通して土屋根の住居を使っていたかが議論になっている。土屋根は夏に蒸し暑くなるので、実験のため5月頃に屋根から土を下ろして樹皮だけにしている」と話す。


遺跡整備コンサルタント会社「ウッドサークル」(東京都中央区)の中田英史社長は「考古学的調査結果から、この10年ぐらいは土屋根が増えており、今後も増える可能性がある」とみる。


文字による記録のない縄文時代の住まいや暮らしぶりが、発掘調査などで明らかになってきた。「北海道・北東北」の世界遺産登録をきっかけに遺跡整備の機運が高まれば、縄文の集落景観が塗り替わりそうだ。

156とはずがたり:2022/04/17(日) 23:42:43
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/773882
法成寺跡で巨大礎石発見「逸話通り」 藤原道長が創建、平等院のモデル
2022年4月17日 6:00
日山正紀
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平等院のモデルになった藤原道長による巨大寺院・法成寺(ほうじょうじ)跡(京都市上京区)の工事現場で、礎石など石材3点が見つかっていたことが…

157とはずがたり:2022/10/11(火) 16:07:29
すげえな,これは保存しておかなあかんやろ。。

「まさかの発見に頭の中まっ白」弥生から明治まで2千年分、生活の痕跡残る遺構
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220903-OYT1T50239/
2022/09/04 13:22

 平安初期の史書「日本後紀」に水運拠点として登場する川港「 淀津よどつ 」の遺構が、桂川西岸(京都市伏見区)から見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所を驚かせたのは、生活した痕跡が残る遺構面が時代別に10面確認されたことだ。水害を示す粗い砂の層はなく、弥生期から明治期まで2000年の間、人の営みが途切れなかったことがわかった。発掘時の様子や発見の意義を聞いた。(山口景子)

■「状態良好 奇跡的」

 調査は、昨年11月〜今年3月、長岡京跡・ 淀水垂大下津よどみずたれおおしもづ 町遺跡(約1万5000平方メートル)の約1600平方メートルで実施された。

 昨年末、地表から1メートルほど下で江戸期の面を確認。ツルハシで一部を深く掘り下げた断面から、目視で見分けがつく濃淡の土層が見つかった。

 「まさかの発見に、頭の中がまっ白になった。すぐに弥生期の土器片が出始め、想定のはるか上をいった」

 調査研究技師の松永修平さん(31)は振り返る。

 掘り進むと遺構面は計10面(厚さ約3メートル)になった。弥生期の約2メートル下には、縄文期に 堆積たいせき した土層も存在した。

 2月頃から順次、現地入りした研究者らも「ただ事ではない」と驚いた。3月に訪れた西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は「これほど長期にわたって続いた遺跡が、良好な状態で出土するのは奇跡的」と述べた。

■30メートル以上の堀も
 国内外の土器・陶磁器片などの出土品は、整理用のコンテナ(縦54センチ、横34センチ、深さ15センチ)214箱にのぼった。

 弥生期の土層からは、緑色の管玉石材や、東海、瀬戸内地方の土器片が多数出た。当時、すでに遠隔地との交流があった証拠だった。

 鎌倉期では、大型井戸の跡(直径約4メートル、深さ3・6メートル以上)に、平安後期の瓦片が補強材として埋まっていた。鳥羽離宮でも使われていた高級品で、天皇家との関係や、淀津の繁栄がうかがえた。

室町後期〜安土桃山期の堀跡から出土した備前焼の巨大なつぼを手に「水か酒をいれたのでは」と話す松永さん
 室町後期〜安土桃山期の堀は、長さ30メートル以上、幅4メートル以上になった。堀の中からは、年号入りの木簡「こけら経」や、中国の皇帝が使った景徳鎮の皿も見つかった。現在は山科区にある大徳寺の外周を囲んだ堀そのものの可能性が高まった。

 松永さんは「文献からは読み取れない情報が満載の貴重な資料ばかり。平安京や長岡京、淀城と関連づければ、2000年の日本史を追える」と胸を躍らせる。

 調査は、国の淀川水系河川整備計画に基づき、桂川の治水工事前に実施されている。終了後、遺跡は河床を下げるため掘削される予定。相次ぐ発見を受け、市と埋蔵文化財研究所は、今年度の調査目的を遺跡の全体像を把握する方針に切り替えた。

 今後、船着き場などの重要な発見があった場合、水害対策の工事と、遺跡保存という難しい課題が出てくることも予想される。

 全国的に有名なケースは、広島県福山市の 草戸千軒くさどせんげん 町遺跡だ。1961年、同じく河川整備に伴う調査で、川から中世の大規模集落跡が丸ごと出現。調査は約30年にわたり、自治体や地元保存会が議論を重ねた結果、出土品の展示場所として県立歴史博物館が開館した。実物大の中世の町並みも復元され、今も多くの人が訪れる。

 遺跡活用の模索は始まったばかりだ。

        ◇

 今回の成果は、9月6日から10月2日まで、京都市考古資料館(上京区)の速報展で紹介される。

  ◆淀津 =平安京の南約10キロ、桂川と宇治川、木津川が合流する淀川の起点にあった川港。他の津や伏見港とも共栄したが、1900年の集落移転で姿を消した。


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