したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

大中華世界的話題

7191チバQ:2015/04/08(水) 22:44:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150408-00000116-mai-int

<ミャンマー>ネウィン孫、02年クーデター「でっち上げ」
毎日新聞 4月8日(水)21時54分配信

 ◇新旧軍政、確執根深く

 【ヤンゴン春日孝之】ミャンマーで1988年に反政府・民主化運動で辞任した独裁者ネウィン(故人)の孫で、ネウィン一家の家長的存在のエネウィン氏(37)が毎日新聞のインタビューに応じた。ネウィン退陣後の軍政期、一家は最高権力者タンシュエ氏と確執を深め、国家反逆容疑で逮捕され、死刑が確定したが、2011年の民政移管後の大統領恩赦で釈放された。エネウィン氏は事件の「内幕」に触れ「軍政のでっち上げだった」と主張した。

 62年の軍事クーデターから独裁者として君臨したネウィンは、88年に新たな軍政が発足して以降も一定の政治的影響力を維持。だが92年、軍政トップにタンシュエ氏が就任してからは影響力が次第に低下した。

 02年3月、一部軍人を誘いクーデターを企てたとしてネウィンとその娘は自宅軟禁に、娘婿とエネウィン氏を含む孫3人の計4人が逮捕され、最高裁で4人の死刑が確定した。ネウィンは同12月に死去する。

 インタビューでエネウィン氏は「私たちは軍政と(民主化指導者)アウンサンスーチー氏の対話を(さまざまな形で)働きかけ、早期の政権移譲を目指していただけだ」と釈明した。

 1審で死刑を言い渡された際、エネウィン氏が法廷で「上訴はしない」と叫んだと伝えられてきた。その真意について「事件で提出された証拠には(捏造<ねつぞう>や操作といった)多くの不正があり、(1審で死刑を確定させ)軍政が裁判を取り下げられなくすることで、辱めようとした」と語った。

 1審判決の翌日、軍政幹部が面会に来て「上訴するよう」求めたという。「すぐに死刑が確定するのは印象がよくない」との理由で「国家元首(タンシュエ氏)は死刑執行を承認しない意向なので、最後まで法的手段を尽くしてほしい」と告げた。

 事件への関与で逮捕された軍将校ら約80人の釈放を条件に同意した。死刑確定後、絞首刑の執行令状はタンシュエ氏の机に置かれたままだったという。

 タンシュエ氏は当初、ネウィンの娘も投獄し、寝たきり状態のネウィンを自宅軟禁にする計画だったという。だが内相が令状への署名を拒否。内相の相談を受けた当時のキンニュン第1書記(軍政序列3位)、マウンエイ副議長(同2位)も「署名は不適と判断」した。

 3人はタンシュエ氏に「(署名したことで)歴史に名を残したくない」と直談判した。結局、娘を自宅軟禁にすることでネウィンを令状なしの事実上の軟禁にするという妥協を引き出したという。

 キンニュン第1書記は、ネウィン時代に軍情報局のトップに抜てきされたネウィン腹心の部下で、一家はキンニュン氏を通じて政治的影響力の確保に努めてきたとみられている。だがキンニュン氏も04年に失脚する。

 「クーデター計画」について、当時から「でっち上げ」との疑念もささやかれていたが、ネウィン一家が政治的、経済的な特権を失いつつあるのに動揺して起こしたともみられた。ただ、事件は軍政にとって一家排除の総仕上げとなった。

 だが、11年の民政移管を迎え、同年3月に就任したテインセイン大統領は13年11月までに4人を随時釈放。エネウィン氏によると釈放当日、軍人が来て「あなたたちと前の政権(タンシュエ氏)に起きたいかなる問題も現政権とは関係がない。現政権はあなたたちの敵ではない」と告げた。

 新政権は旧軍政と一定の距離を置く、との意思表示だと解釈したという。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板