したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

大中華世界的話題

6142チバQ:2014/06/02(月) 00:16:06
 現状でその兆しは見えない。だが、この四半世紀に堆積した矛盾や課題が中国を深くむしばみ、もはや放置できないことは、現指導部が最もよく知っているはずだ。

    ◇


関係者ら曲折の人生 指名手配避け国外亡命


 天安門事件で、民主化運動の中心的な役割を果たした北京の学生リーダーや、理論面で運動を支えた主な知識人は、武力弾圧に続く「指名手配」を避けて多くが米国など国外に逃れた。

 事件から25年を経て、当時最年少の学生リーダーだった王丹氏すら、45歳を迎えた。ハンストの指導で「天安門のジャンヌダルク」と呼ばれた柴(さい)玲(れい)氏(48)は、ともに民主化運動を闘った前夫と別れ、米国でコンピューター関連の会社を経営する。

 当時の関係者は一様に中国情勢の推移に関心を抱くが、民主化運動への関与度はさまざまだ。海外での運動が低迷するなか、生活の困窮に悩んだり、家庭不和に陥ったりした人もいる。

 運動の理論指導者として知られ、天安門事件直後から北京の米国大使館に1年間籠城した「中国のサハロフ博士」こと方(ほう)励(れい)之(し)博士が2012年に、趙紫陽元総書記のブレーンだった陳(ちん)一(いち)諮(し)氏が今年4月にそれぞれ米国で死去。老境を迎えて中国への帰郷は一度もかなわなかった。(山本秀也)

    ◇

天安門事件

 1989年4月15日、改革派指導者で総書記を務めた胡耀邦が急逝したのを機に、北京の学生らが追悼のデモ、集会を開催。胡の名誉回復を求めた学生らの動きは民主化要求へと発展した。中国共産党機関紙、人民日報は4月26日、最高実力者、●(=登におおざと)小平の指示を受け、学生運動を「動乱」とする社説を掲載。これが学生らの反発を招き、5月中旬以降、天安門広場は連日、学生、市民らで埋まった。趙紫陽総書記(当時)は学生らを見舞った5月19日を最後に公の舞台から姿を消し、事実上失脚した。

 政権は20日、北京市に戒厳令を布告。6月4日未明には戦車、装甲車に守られた人民解放軍の戒厳部隊が学生、市民らを銃撃し天安門広場を制圧した。広場周辺では多数の死傷者が出た。当局の発表だけでも事件全体で約300人が死亡。死者約2600人、負傷者約1万人などとする説もある。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板