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大中華世界的話題

4766チバQ:2013/04/14(日) 11:16:13
http://mainichi.jp/feature/news/20130408ddm007030067000c.html
「革命」支援:ミャンマー制裁の内幕/2 スーチー氏警護が縁
毎日新聞 2013年04月08日 東京朝刊

 「当時は彼女が暗殺されるかもしれないという情報があって、われわれ大学生が警護を担当することになったんだ」

 ワシントン市内のミャンマー民主化支援団体「U・S・キャンペーン・フォー・ビルマ」の事務所で、在米活動家アウンディン氏は25年前のアウンサンスーチー氏との出会いを振り返った。

 アウンディン氏の父はビルマ共産党の活動家で、ヤンゴン市内の自宅は反体制派の活動家のたまり場だった。少年時代に「政治」に目覚めたアウンディン氏は1981年、ラングーン工科大学(現ヤンゴン工科大学)に入学すると、迷わず学生運動に身を投じた。

 62年からネウィン将軍の独裁政治が続いてきたミャンマーでは、88年3月ごろから民主化運動が高揚し、デモと集会が全土に広がった。働きながら学んでいたアウンディン氏は卒業が遅れ、88年8月に結成された「全ビルマ学生連盟連合」の第2副議長に就任し、学生による民主化運動の先頭に立った。

 アウンディン氏がスーチー氏と初めて会ったのは88年8月23日。スーチー氏は3日後にヤンゴン中心部のシュエダゴン・パゴダ(仏塔)で演説に立つ予定だった。アウンディン氏は会場の警備責任者の一人としてヤンゴン市北部のスーチー邸に招かれた。「こちらは25歳の学生。スーチーさんは43歳。民主化に関する彼女の話を一方的に聞くだけだった」と当時を回想する。

 この対面から26日後の88年9月18日、国軍はクーデターで全権を掌握し、民主化勢力の徹底弾圧を開始した。アウンディン氏はスーチー邸の敷地内の別棟に身を潜めていたが、翌89年4月23日に逮捕されてしまった。

 拷問は過酷だった。天井から逆さづりにされて殴打され続け、政治囚の収容で悪名高いヤンゴン市内のインセイン刑務所の特別房に収監された。逮捕令状なし、裁判なし、弁護士との面会なし。国家反逆罪で懲役4年を宣告され、最終的に93年7月7日まで服役した。

 出所後、ヤンゴンの実家に戻ったが、軍に24時間監視され、民主化運動の再開は絶望的だった。年老いた両親の負担を軽くしようと95年3月、単身シンガポールに渡り、空調設備を取り扱う会社に就職した。

 一方、スーチー氏はアウンディン氏の逮捕から3カ月後の89年7月20日、1回目の自宅軟禁状態に置かれた。軟禁は95年7月10日まで約6年に及び、軟禁を解かれた時、アウンディン氏は既にミャンマーにはいなかった。

 「結局、スーチーさんとは、私が逮捕されるまでの短い間にほんの数回会っただけ」とアウンディン氏は言う。2人が次に直接顔を合わせたのは、スーチー氏が訪米した2012年9月17日。23年後のことだった。

「もう民主化運動に関わることもないだろう」。シンガポールの空調会社で黙々と働き、故郷の両親に仕送りを続けた。

 だが、1本の電話が運命を変えることになる。98年2月のことだった。【ワシントン白戸圭一】=つづく


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