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大中華世界的話題
4306
:
チバQ
:2012/11/21(水) 22:58:37
http://mainichi.jp/select/news/20121115ddm007030138000c.html
13億の転換点・2012年中国:第3部 習近平指導部を見通す/1 習氏像、まだ見えず
毎日新聞 2012年11月15日 東京朝刊
中国で副首相を務めた父親を持つエリート家庭に生まれ、文化大革命の混乱にもまれて成長した習近平(しゅうきんぺい)国家副主席(59)は15日の共産党第1回中央委員会総会(1中全会)を経て、中国の新指導者となる。地味なスーツ、感情を抑えた話し方、党内の政治的立場は不明、対日強硬派の一面も……。評価が定まらない中、13億国家を率いる新指導者となる。その人物像に迫った。【「13億の転換点」取材班】
◆農村へ「下放」
◇過酷な生活、原点に
1953年6月、陝西(せんせい)省富平(ふへい)県で生まれた。父習仲勲(しゅうちゅうくん)氏は元副首相だ。高級幹部の子息は「太子党」と評され、習氏もその一人。だが文化大革命で父が失脚し、15歳だった69年から約7年間、「下放政策」によって荒土が広がる陝西省梁家河(りょうかこう)村で過酷な生活を送る。
習氏は当時をこう回想録に書き留めている。「私は若かったし、長期的な思想はなく、周囲と仲良くすることもなかった。みんなが山仕事に行っても、私は気にかけることもなく、農民たちの私への印象は良くなかった」。自分から村人に溶け込むことはなかったと認めている。
一度、北京に逃げ戻った。だが、伯父に「民衆に頼らなければ誰に頼るのだ」と諭されて村に戻る。これが転機となる。
それからは地元の方言を覚え、村人の求めに応じ北京の話を紹介した。次第に村の党幹部からも信用を得た。若くして村トップの書記になると、水不足を補うためのダムを作ったり、電気の通じない村でメタンガスを利用してエネルギー源にしたりするなど農民の生活改善に尽力した。
「15歳で黄土高原に来た時、私は途方に暮れ、さまよっていた。22歳で黄土高原を離れる時、私には『人民の公僕になる』という人生の目標ができ、自信に満ちていた。高原は不変の信念を育ててくれた私の根っこだ」
親族を幹部に持つ毛並みの良さにもかかわらず与える「農夫」のような印象は、こうした体験が醸し出しているのかもしれない。
◆幼少期
◇友人「使い走りも」
3月23日、北京・人民大会堂。習副主席は民主党の鳩山由紀夫元首相と会談していた。直前には同党の輿石東幹事長とも会談。鳩山氏は小沢一郎氏がしたためた胡錦濤(こきんとう)国家主席らに宛てた親書を中国側に手渡した。
「大きくたくましい。ごつごつした手をしている」。この会談に同席した携帯電話大手ソフトバンクの嶋聡(しまさとし)社長室長が振り返る。嶋氏は身長183センチ。だが習氏はさらに上背があった。
握手しながら嶋氏が中国語で「初めまして」とあいさつすると、習氏は「中国語を勉強されているんですか。お上手ですね」と応じた。二人だけの写真にも気軽に応じてくれた。好戦的とも報じられる習氏。だが、さりげなく話しかけてくる。「敵を作るようには見えない。むしろ気配りの人なのでは」と嶋氏は感じた。
嶋氏が抱いたこの印象について、今も習氏とつながりのある幼なじみはこう解説した。
<小さい時の彼は決してリーダーシップのある人ではなかった。使い走りをさせられていたこともあった。下放されていたから1日に何キロも歩いている。農夫のようだよ>
◆日の当たる道へ
◇「将来偉くなる人」
太子党として日の当たる道を歩き出すのも遅くはなかった。中国共産党に74年に入党、翌75年に清華(せいか)大学化学工程学部に入学。79年に卒業後は国務院弁公庁で耿〓(こうひょう)副首相の秘書を務めた。
河北省正定(せいてい)県党委書記時代の85年、習氏は農業視察団の責任者として河北省と姉妹提携していたアイオワ州マスカティンを訪問し、地元の一般人宅に3日間、ホームステイした。当時を知るジョニー・アクセルさんは「とにかく議論を尽くすタイプだった」と話す。最新の農業機械について、質問攻めにして、通訳を困らせていたという。
習氏は今年2月、のちに国家主席になるのを控えた外遊の一環としての訪米で当時の関係者と再会した。アクセルさんは「当時も今も彼からは信頼を感じる。上司から信頼に足る人物と思われたのは納得できる」と話した。
静岡県知事を務めた石川嘉延(よしのぶ)氏(71)は在任中4回、退任後1回、習氏に会っている。石川氏は習氏が共産党の階段を上り詰める可能性を早くから感じ取っていた。
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