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大中華世界的話題

4113チバQ:2012/10/15(月) 22:49:40
http://mainichi.jp/select/news/20121016k0000m030087000c.html
カンボジア:第三世界の冷戦象徴 シアヌーク前国王死去
毎日新聞 2012年10月15日 21時59分(最終更新 10月15日 22時24分)

 【バンコク岩佐淳士、北京・工藤哲、米村耕一】カンボジア「独立の父」シアヌーク前国王(89)が15日死去した。東西冷戦中、非同盟・中立路線で祖国の生き残りを図ったが親米勢力のクーデターで失脚し、内戦に巻き込まれた。その数奇な人生は、大国の利害に翻弄(ほんろう)された「第三世界」にとっての冷戦を象徴している。

 フランスからの完全独立を果たしたシアヌーク氏は55年、インドネシアで開かれた「バンドン会議」(第1回アジア・アフリカ会議)に出席し、東西いずれの陣営にも属さない非同盟・中立主義を宣言。インドのネール首相(当時)が提唱したこの考えは、アジア・アフリカなど「第三世界」の国々が冷戦下の国際社会で自立した地位を保つ方法として、脚光を浴びた。

 東西両陣営の間のバランス外交で支援を引き出し、仏教に基づく社会主義政策の下で安定を保ったが、社会主義陣営との親交を深めるにつれ、米国との関係が悪化。親米ロン・ノル将軍のクーデターにより北京に亡命し、敵対していた極左勢力ポル・ポト派と一時連携する。

 カンボジア内戦の複雑化は、当時、東側諸国で表面化した中国とソ連の対立が影響したものだった。シアヌーク氏は82年、ポル・ポト派らと共にヘン・サムリン政権に対抗する「3派連合」を結成。政権をソ連とベトナムが支援したのに対し、3派連合は中国や西側諸国が後ろ盾となり、カンボジア内戦は中ソ対立を反映する構図となった。

 約20年に及ぶ内戦の和平協定が結ばれたのは、冷戦崩壊後の91年だった。カンボジア問題に詳しい黒柳米司・大東文化大教授は「非同盟・中立主義は冷戦の緩和には大きな力を発揮できなかった。中ソ対立で冷戦構造自体が変わり、シアヌーク氏はそのカリスマ性ゆえに、政治勢力から利用されてしまった」と指摘する。

 非同盟・中立路線を掲げたシアヌーク氏だったが、中国や北朝鮮とは親密で、「赤い国王」とも呼ばれた。毛沢東主席や周恩来首相(いずれも故人)ら中国建国時の指導者らと交友を持ち、良好な関係を築いた。亡命時には北京に逃れることが多く、中国の影響力に頼った。晩年は北京でがんや糖尿病の治療を受けていた。

 北朝鮮の故金日成(キム・イルソン)主席とも親交が厚く、70年のクーデターによる亡命時は平壌市内の宮殿で厚遇を受けた。93年に国王復位後も関係は続き、カンボジア国内の王宮や別荘でも前国王の周囲は北朝鮮から派遣されたボディーガードで固められていた。

 日本とも皇室を通じて親交が深く、終戦後には日本への賠償請求権を放棄した。日本も亡命中に財政支援するなどシアヌーク氏との関係を重視し、日本が戦後初めて国際紛争を仲介した90年の「カンボジア和平東京会議」開催につながった。日本は92年、カンボジアの国連平和維持活動(PKO)に初めて自衛隊を送り込み、国連ボランティアと文民警察官の日本人2人が襲撃事件で死亡する事件もあった。カンボジアとの関わりは日本の国際貢献のあり方に大きな影響を及ぼした。


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