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大中華世界的話題

1844チバQ:2010/09/29(水) 23:22:26


 「でも、10代のころ、西側社会で暮らせば、自国のありさまが相対化できます。スイスだけじゃなく、ヨーロッパ各国にも足を運び、つぶさに実情を目にしていますよ」

 そう証言するのは藤本健二さん(仮名)である。1982年から通算13年間、「将軍さまの料理人」としてかの国で過ごし、金正日ファミリーに仕えた。幼いころからの正銀氏をよく知っている。その体験を「北の後継者キム・ジョンウン」(中公新書ラクレ)の題で近く、出版する。

 「バスケット好きのぼんぼんでした。何の不自由もない将軍のご子息ですから。ところが、海外暮らしで目覚めたようです。正銀大将がスイスから帰省中の17〜18歳のころでした。列車の中で、夜通し話しました。ヨーロッパはどこでも商店はものであふれている。さて、わが国はどうだろうかと憂える。父から聞いたみたいですが、上海の発展ぶりについても言っていました。わが国も直すべきところは直さないといけない、と」

 92年1月8日、招待所での正銀氏9歳の誕生日。宴会場に入り、席に着くと、テーブルにメニューともう1枚紙があった。なにやら歌詞が印刷してある。乾杯がすむと、いきなり控えていた総書記お気に入りのポチョンボ電子楽団の演奏が始まった。女性歌手が歌ったのが「パルコルム(足取り)」だった。正銀氏デビューの地ならしとして、ここ2年、北朝鮮全土で広く歌われている称賛の歌である。

 ♪タッタ タッタッ パルコルム われらが金大将のパルコルム

 「インパクトがありましたね。当時の歌詞は<金大将>でなく、<小さな大将>でした。実は将軍は数字の9にこだわる。自身の誕生日は2月16日、2+1+6=9。正銀大将も1+8=9。しかも9歳だから将軍はすごく機嫌よくて。作曲したリ・ジョンオ氏に礼を述べ、大将も『コマプスムニダ(ありがとうございます)』を繰り返した。大将と私は同じエトで、大将の生年が83年と覚えている。今年は27歳、2+7=9。おめでたい年になるはずです」

 ひょっとすると、「パルコルム」がお披露目された92年、50歳の金総書記はまだ幼い正銀氏を将来の後継者と思い定めていたのではないか? 前年暮れ、頼みとしていたソ連が崩壊、危機感を募らせていた。金主席もこの92年に息子の50歳を祝い、文武忠孝を兼ね備えた息子にうやうやしく自作の詩を贈った。金王朝にとって92年が3代世襲へのカギだった可能性がある。

 若きリーダー登場の前触れか、当局は平壌にできた「凱旋(がいせん)青年公園」をしきりに宣伝しだした。絶叫マシンをそろえた遊園地、ハンバーガーショップもある。そしていたるところに総書記のスローガン。<わが地に足を着け、目は世界を見よ!>。藤本さんにはぴんとくる。「高英姫(コヨンヒ)夫人に連れられ、正銀大将兄弟も日本のディズニーランドで遊んだんですよ。夫人はあんなアトラクションがうちの国にもあったらいいわねっておっしゃっていましたから」

 形ばかりの選挙で党の要職に就いたとはいえ、いびつな3代世襲。人民に平壌版ディズニーランドをプレゼントしても、父の軍事重視の「先軍政治」を踏襲し、ミサイル開発と核兵器保有に固執するなら、国際社会の理解は得られまい。神話めいたカリスマ性も時代錯誤だ。正銀氏の同行は確認できないが、8月の金総書記の訪中ルートは金主席の若かりしころの革命史跡めぐりでもあった。その祖父の遺訓は<人民が白米ご飯と肉のスープを口にし、絹の服を着て、瓦屋根に住むようにしなければならない>。

 正銀氏は春を呼べるか。

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