したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

524とはずがたり:2014/08/26(火) 14:14:51

2327 :名無しさん:2014/05/16(金) 04:42:05
国が昭和初期に出版した観光ガイド本「日本案内記」の中国・四国編に、竹島を紹介する記述があることが、
島根県竹島問題研究会の調査で分かった。

戦前に国が刊行したガイド本に竹島の記述が確認されるのは初めて。同会は「韓国の不法占拠以前から、
竹島が日本の観光名所として全国に認知されていた証拠になる」としている。
日本案内記は当時の鉄道省(現・国土交通省)が刊行し、北海道、九州など地方別の全8巻で構成。
沿線を中心に、各地の名所旧跡を図や写真を交えて紹介している。携帯しやすい三六判(横約9センチ、
縦約18センチ)で、ガイド本を旅先で持ち歩くスタイルを定着させたといわれる。
1934年の中国・四国編(453ページ)では、竹島について「隠岐島の西北一五七粁(キロ・メートル)、
日本海中にあり。二箇の岩嶼(がんしょ)より成り、断崖峭立(しょうりつ)、處々(ところどころ)に洞門あり、
海底深くして投錨とうびょう困難」と紹介している。
さらに、「海驢(あしか)の蕃殖地(はんしょくち)で、西郷町の竹島漁撈(ぎょろう)(合資)会社がその捕獲を
営んで居る。住民はない。この島は洋人の称するリヤンクール岩で、邦人はもと松島と呼んだが、明治三十八年
(1905年)島根県の所属となって、現名に改まった」と記載している。
日本案内記は人気を集めて改訂版も発刊され、竹島の紹介はそのまま残った。42年版(446ページ)には、
「(竹島漁労合資会社に代わって)隠岐五箇村がその捕獲を営んで居る」と、アシカ猟の漁業権の移り変わりに言及。
韓国が一方的に李承晩ラインを設定した後の54年版(441ページ)には「戦前は隠岐の島民が漁期に来て
その捕獲を営んでいた」の一文がある。
同会関係者が、図書館で昭和初期の資料を調べていた際に、竹島の記述があるのを見つけた。同会は
「昭和初期には、国が竹島を日本の主な観光地の一つと認めていたことがわかる。日本人に関わりの深い
名所であったことを再認識できる資料」としている。

ソース/読売新聞社
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140514-OYT1T50255.html

2348 :名無しさん:2014/06/23(月) 21:32:26
竹島でアシカ漁に従事していた漁師たちの住所を記した明治後期の文書を確認[06/21]

 明治時代後期、竹島でアシカ漁に従事していた漁師ら6人の住所が記された文書が
県立図書館(松江市)に保管されていたことが、県竹島問題研究会の調査で分かった。
 居住地は隠岐諸島だけでなく、現在の出雲市や鳥取、鹿児島両県にも及んでおり、
同会は竹島漁労の実態を示す貴重な資料とみている。

 当時の竹島漁労に従事した漁師らの住所が判明したのは初めて。

 同会関係者によると、6人は、1905年に日本が竹島を編入した後、アシカ漁などを行うため
島後に設立された「竹島漁猟合資会社」所属の漁師ら。
 住所は、島後の西郷町と磯村(ともに現・隠岐の島町)、園村(現・出雲市)のほか、
鳥取県の田後村(現・岩美町)と赤崎村(現・琴浦町)、鹿児島県知覧村(現・南九州市)もあった。

 6人は操業中とみられる08年(記者注:1908年)4月19日午後2時頃、竹島付近で水雷を発見し、
同社の代表だった中井養三郎(1864〜1934年)が同年5月、6人の名前と住所を記した
報告書を島後の西郷署(当時)に提出。この書面を半世紀後に県職員が筆写した文書が残されていた。

 同会は「竹島が隠岐住民らの生活圏だっただけではなく、各地から漁師が集まるほど好漁場として
国内で広く知られていたことを示す証左」としている。(矢沢慎一)

読売オンライン 2014年06月21日 (リンク先に画像あり)
http://www.yomiuri.co.jp/local/shimane/news/20140620-OYTNT50202.html


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板