したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

食品産業総合スレッド

1302とはずがたり:2013/12/01(日) 15:10:45

2013年9月13日(金)
アメリカに工場進出40年、しょうゆに賭けた男たち
http://president.jp/articles/-/10615
PRESIDENT 2013年9月2日号
プレジデント編集部 星野貴彦=文 遠藤素子=撮影

慢性的な赤字事業を「ドル箱」に変えた40年前の挑戦

営業利益の66%を海外事業が稼ぐ
日本企業はいつから米国での現地生産を始めたのか――。最もよく知られている事例はソニーだろう。1972年、米南西部のカリフォルニア州サンディエゴでテレビの組み立て工場を稼働させている。

その翌年の73年、キッコーマンは中西部のウィスコンシン州ウォルワースにしょうゆの醸造工場を建設している。ホンダや日産、トヨタが現地生産を始める約10年前のことだ。このほかにはYKKが74年に南東部のジョージア州メーコンにファスナー工場を建設しているが、原材料の現地調達まで行うという食品工場の建設は、異例だった。

しょうゆの初の海外生産から今年で40年。同社の海外事業は売り上げで46%、営業利益で66%を占めるまでに成長した。現在、海外の生産拠点は北米に2カ所、中国に2カ所、さらに台湾、シンガポール、オランダと7カ所を数える。

世界7カ所で現地生産を進める
キッコーマンは現地生産を始める16年前となる57年、米国に販売会社を設立し、しょうゆの販売を本格的に始めている。しょうゆは少しずつ北米市場に浸透していったが、日本からの輸出では輸送費がかさむこともあり、慢性的な赤字事業だった。この赤字事業を「ドル箱」に変えたのが、「海外通」の茂木友三郎名誉会長だ。

創業家出身の茂木は、61年にコロンビア大学ビジネススクールで日本人初のMBAを取得。当初は「家業」であるしょうゆにそれほどの思い入れはなかったようだが、現地でのしょうゆの試食販売(デモンストレーション)のアルバイトの経験などから、「しょうゆを海外で売る」という未知の仕事に魅了されていく。

しょうゆの本格的な普及には、現地の食文化に取り入れてもらう必要がある。そうした考えから、同社では、レシピの開発や店頭でのデモンストレーションなど、さまざまなマーケティング活動に力を入れた。そのうち、肉をしょうゆに浸して焼く「テリヤキ」という食べ方が人気を集めるようになった。消費は順調に伸び、現地生産の開始で事業は一気に拡大した。

市場のないところに、市場をつくる。アジアの見知らぬ調味料を、米国の食卓に溶け込ませる。なぜそうした挑戦が成功したのか。1つの答えが、同社の人事政策にある。

茂木は海外事業を担う「グローバル人材」の要件として、「異文化に順応するのではなく、適応することが必要だ」と著書で述べている。

「適応性は順応性と違う。順応性というのは、一応適応はするが、元に戻らなくなってしまうことを指す。たとえば、アメリカに住んだらアメリカ人になってしまうということだ。適応性とは相手が変われば、それに応じて自分も柔軟に適応できる能力のことである。アメリカに住めばアメリカの文化に、ヨーロッパに行けばヨーロッパの文化に適応できる人でなくてはならない」(『キッコーマンのグローバル経営』)

具体的にはどういうことか。同社の海外事業を担ってきた2人のキャリアから、その手法を探ってみたい。

海外勤務は35年目「いつでもどこでも参ります」

「私が入社した1973年にアメリカに工場ができたんです。『これはチャンスがあるかもしれない』と思って、入社5年目のとき『アメリカでしょうゆを売りたい』と上司に申し出た。まさか、それから30年以上も海外勤務を続けるとは思いませんでしたが」

キッコーマンの取締役常務執行役員で米国販売会社の社長を務める島田政直は、35年前に米国へ出向して以来、一貫して海外で働いてきた。

島田は大学卒業後の73年にキッコーマンへ入社。ワイン課に配属され、都内の小売店の営業担当となった。

当時、自宅は東京・世田谷区にあった。小田急電鉄の祖師ヶ谷大蔵駅から帰る途中、商店街を抜けた先で焼き鳥屋の前を通る。そのたびに、しょうゆの焦げたにおいが、鼻腔をくすぐった。

「しょうゆと肉の相性は抜群。店頭で肉をしょうゆで焼く実演をすれば、アメリカでも絶対に売れる」
(以下略)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板