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農業総合スレ

1625とはずがたり:2015/02/17(火) 08:06:40
原料高騰ぐらいで悲鳴を上げるのは漁業もそうだけどぬるすぎるわ。もやしは大好きだし頑張って欲しい。

「もやし」を日本中に広めたのは戦争だった
岐路に立つもやし(前篇)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42665
2015.01.16(Fri) 漆原 次郎

もやしが、ここのところニュースで取り沙汰されているのをご存知だろうか。2014年12月、原料である緑豆の価格高騰と小売での価格下落が相まって、生産者が悲鳴を上げていると報じられているのだ。

インドネシアから? 中国から? 謎に満ちた起源

 豆類などを水に浸し、日光を遮って芽を出させたもの。これが「もやし」である。一般に我々が食べるもやしの原料豆としては、皮が緑色の「緑豆(りょくとう)」、皮が黒くてブラックマッペともよばれる「毛蔓小豆(けつるあずき)」、それに「大豆」などがある。

 いま見られるようなもやしが、どのように日本に渡来し、栽培されるようになったのか。実は、その起源についてはほとんど明確になってはいない。

平安時代の延喜年間(901〜923)に成立した日本最古の本草書『本草和名』には、すでに「毛也之(もやし)」という記述があり、薬用に栽培されていた。

 江戸時代初期の1712(正徳2)年には、寺島良安による図入り百科事典『和漢三才図会』が発行されており、「菽豆類」の巻に「豆糵(まめのもやし)」が載っている。残念ながら図の記載はないが、「黒大豆は糵となって、芽を生ずる。五寸の長さで乾かして、よく炒って服食する。心もち甘く、痺れや膝の痛み、筋のひきつりを治す」といった旨が記されている。この時代、もやしはまだ薬用と考えられていたようだ。
温泉地での栽培から港湾都市での栽培へ

 流通網も発達していなかった江戸時代、現在ほど全国各地でもやしが食べられていたわけではない。だが、雪国の温泉地では、冬場に温泉の熱を利用して、もやしもつくられるようになった。

 青森県大鰐(おおわに)町の大鰐温泉では、「小八豆(こはちまめ)」という在来種の大豆を原料とする長さ30センチほどの長細い「大鰐温泉もやし」がつくられてきた。歴史は古く、少なくとも江戸時代初期にさかのぼれるという。津軽家第三代藩主だった津軽信義(1619〜1655)の頃には、七草がゆの材料の1つとして大鰐温泉もやしが献上されていた。室の中の土壌に種まきをして育てる。水耕栽培が主流の中で、栽培法は特徴的と言える。

 また、山形県米沢市の小野川温泉の界隈でも、江戸時代の中期から、「小野川豆もやし」が栽培されてきた。やはり、雪を溶かす温泉熱を利用してのものだ。見た目は大鰐温泉もやしと似ている。

 もやしは、雪国の冬場を乗り越える、貴重な栄養源であったに違いない。

広くもやしが広がったのは、明治時代も後半以降のこと。港がある大都市に、中国から輸入された豆を使ってもやしをつくる栽培業者が現れ出したのである。

 農林省(現在の農林水産省)が発行した『もやし製造業の現状と問題点』という報告書によると、東京では1926(大正15)年、日本橋に中国から原料豆を輸入する業者が誕生したという。横浜でも、あんこ用の小豆調達専門店だった「並木商店」店主の並木豊三郎が、満州で緑豆を試験栽培し始め、緑豆の輸入ルートを築いた。

戦争がもやしの普及を後押し

 だが、もやしの全国的な普及に、なにより不可分だったのは戦争の影響だった。

 丸本彰造という人物が1936(昭和11)年まで陸軍主計少将を務めていた。かねてから丸本はもやしの栄養価に注目していた。かつて日露戦争でロシア兵に多くの壊血病者が出ていたのは、ビタミンCが欠乏したからという論を唱え、1918(大正7)年のシベリア出兵のとき、「将兵のビタミンC不足はもやしで補う」として兵食にもやしを加える努力をしたのである。


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