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都市計画道路・高速鉄道スレッド
989
:
とはずがたり
:2007/11/13(火) 23:58:53
>>988-989
ところが、その翌1965年(昭和40年)に東武東上線は8号有楽町線に、東急田園都市線も11号半蔵門線(但し当時は東急玉川線の規格を踏装して銀座線程度の小型車で計画)への乗り入れを目指す計画に変更され(池上線の計画は実現せず)、三田線の直通計画は宙に浮いてしまった。この件では、両社、特に東急に対して都は抗議を行ったが、結局東急・東武の意向に押し切られた。これ以降、三田駅以南の計画は未定のまま高島平駅〜三田駅間のみを着工することになった。高島平駅〜西高島平駅間は上記の東武の連絡線の区間であるが、都が免許を譲り受けて着工することになった。都は規格の統一の点から浅草線と同様の1435mm軌間で計画されていたのを東急・東武の申し出で1067mm軌間に変更したのに一方的に中止を申し出たので、当時、この件に関しては都側は「甚だ信義にもとる行為であり、この計画に関して東急側に強く翻意を即す」と猛烈に抗議した。このため、後年東急目黒線と相互直通運転を行うまでは、どの他社線とも直通運転を行うことはなかった。
当時の案ダイヤ中で想定された列車については、乗り入れ区間は東武側の折り返しは上福岡駅で折り返す列車を多数設定する(一部川越方向も)つもりであった(志木駅でも折り返し可能ではあったが、当時の同駅には引き上げ線がなかった)。また、泉岳寺以南は五反田駅まで1号浅草線と併走し、東急側が戦時中に廃止していた桐ヶ谷駅(大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間に位置していた)を大崎広小路駅の代替として復活し、池上線と接続、旗の台駅で大井町線に接続し、そのまま田園都市線に直通する構想であった(既存線の桐ヶ谷〜五反田間は廃止が計画されていた)。その場合の折り返し駅は長津田駅で計画されていた。まとめると、昼間時は長津田〜泉岳寺〜(三田線)〜和光市〜上福岡で直通列車を運転する予定であった。
1968年(昭和43年)の都市交通審議会答申第10号において6号線は、桐ヶ谷方面〜大和町方面が、大宮市西部…浦和市西部〜清正公前(現・白金高輪駅)…港北ニュータウン(横浜市)間に改められた。 港北ニュータウン計画の計画書である「港北ニュータウン交通計画 1971-1972」によれば、当初は都営地下鉄三田線を西馬込から港北ニュータウンを経由して国鉄(当時)横浜線中山駅まで延伸する計画であった。西馬込への延伸が都営地下鉄浅草線となった後には、港北ニュータウンへも浅草線を延伸することが計画されたが、最終的には再度三田線の延伸計画へと改められている。いずれも五反田を経由して、中原街道を通る計画となっていた。
詳細なルートが確定しないまま、今度は目黒付近を経由して港北ニュータウン地区までの延伸を目指すことになり、清正公前〜目黒間は営団地下鉄南北線(当時)と共用することになった。1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は目黒止まりとなり、東急目蒲線(仮称・東急都心線、現在の目黒線)と相互乗り入れすることが確定し、それと共に三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回となった。この結果、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線から目黒線へと路線は違えど実現することになり、最終的に東京6号線は西高島平駅〜目黒駅という路線を形成することになった。
なお、港北ニュータウン計画では、地下鉄の建設予定部分に関しては、地下の利用権買収の手間をなくすため、区画整理の過程で公園や遊歩道として割り当てられており、現在もこの時の建設予定線が、横浜市立北山田小学校付近からセンター北駅へ至る遊歩道として残っている。その港北ニュータウン地区への鉄道建設についても、2008年3月末に乗り入れ先の東急目黒線が武蔵小杉駅から日吉駅まで延伸し、連絡する横浜市営地下鉄グリーンラインが日吉駅から港北ニュータウンを抜け、中山駅までを結ぶという形で実現される運びになった。
また、北側については、西高島平から荒川を渡り、新大宮バイパスを北上して戸田市やさいたま市桜区の西浦和を通り、同市西区の指扇または同区宮前町の川越線との交差部(宮前IC)付近まで伸ばす計画であった(なお、1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は埼京線の建設によって削除され、跡地には1990年以降、首都高速5号池袋線の延伸区間と首都高速道路埼玉大宮線が順次開通した)。
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