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都市計画道路・高速鉄道スレッド
699
:
荷主研究者
:2005/12/31(土) 00:05:38
【仙台:戦災復興事業】
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/12/20051228t15042.htm
2005年12月28日水曜日 河北新報
戦後60年 市民の“協力”復興の礎に 土地提供、感慨深く
<昔>「仙台砂漠」「ほこり高き道路」と呼ばれた青葉通。1954年に全面舗装されるまで、風が吹くたびに砂煙が舞い上がった=1954年、東一番丁との交差点付近
<今>青葉通のケヤキは60年間、仙台の街の発展を見守ってきた。光のページェントは今年20回を迎え、鎮魂と平和の祈りを込めた光の花を咲かせた
終戦から60年、2005年が暮れようとしている。仙台空襲で廃虚と化した仙台の街は大胆な都市計画で近代都市に姿を変え、ページェントの光に彩られている。換地で住み慣れた土地を追われた市民は、かつて自宅があった青葉通の光の並木を眺めながら「今の姿を見ると感慨深い」と静かに語る。
仙台駅西の市街地と川内地区の約500ヘクタールが壊滅的な被害を受けた仙台空襲。中心部には遮る建造物がなくなり、西公園からも仙台駅が見通せた。
戦災復興を進めた仙台市は、中心部に東二番丁通や広瀬通、晩翠通などの幹線道路を計画。住宅地を貫き、仙台駅と川内を結ぶ青葉通を通した。
「住み慣れた土地を失うことに寂しさを感じたが、当時は致し方ないとの思いが強かった」。現在、青葉通の一部になっている東四番丁(青葉区中央)に住んでいた富沢杏子さん(78)=泉区=はそう振り返る。
焼ける前の東四番丁は、狭い路地に大きな屋敷が連なり、城下町の面影を残していた。富沢さん宅は敷地660坪(2178平方メートル)のほとんどを道路用地に明け渡し、一家は伊勢堂下(現子平町)に移転した。
富沢さんは戦後60年を振り返り「わたしたちは財産を失ったが、100万市民の財産になったと思えば報われる」と語る。
近代出版史研究家の渡辺慎也さん(73)=太白区=は「今の仙台は協力という名の市民の“犠牲”の上にある。焦土から立ち上がった先人の苦労を忘れないでほしい」と話している。
[仙台復興都市計画]宮城県が1945年12月、27年発表の都市計画を基に案を策定。翌年、仙台市に権限を移した。戦災復興事業区域343ヘクタールが換地対象となり、所有者は土地の25%を一律削減された。強制的に移転させられた市民も多く、「(戦災で)家を焼かれ、土地を削られ、住む場を追われた三重苦」とやゆされた。
青葉通の幅員50メートル(仙台駅―東二番丁)は「米軍の飛行場にするのか」と論議を呼んだが、当時の岡崎栄松市長は「未来の市民のため」をスローガンに、強力に計画を推進した。
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