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都市計画道路・高速鉄道スレッド

2375チバQ:2013/10/17(木) 22:57:10
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukui/news/20131016-OYT8T01343.htm
「敦賀に路面電車」幻の計画



敦賀電気軌道が計画した路面電車の路線図(岡本代表提供) 昭和初期に計画され、鉄道省(現・国土交通省)に提出された敦賀駅と街の中心だった気比神宮周辺を結ぶ路面電車の敷設願が、国立公文書館で見つかった。自動車の普及を理由に2社から相次いだ出願は却下され、幻に終わったが、交通の要衝にある敦賀の当時のにぎわいぶりを裏付ける資料として注目される。(島田喜行)

 県内の鉄道の歴史を研究する「ふくい私鉄サポートネットワーク」の岡本英志代表(55)らが3月下旬、国土交通省から同館に移管され、公開された資料の中から見つけた。

 最初の敷設願は、1927年(昭和2年)11月10日付で鉄道省に提出された。旧敦賀町内外の発起人13人が、資本金20万円で「敦賀電気軌道」という会社を設立することになっていた。

 路線は、敦賀駅から北西に進み、現在のアル・プラザ敦賀前から進路を北に変え、気比神宮前まで伸びる築港線(1020メートル)と、アル・プラザ敦賀前から北西に進み、当時兵営のあった地点を結ぶ松原公園線(220メートル)を計画。電車3両を運行し、5か所の停留所を設ける予定だった。

 しかし、当時は既に車が普及し始めていたこともあり、28年10月1日に「町の中心に軌道を敷設するより自動車の方がむしろ適当であり聴きとげ難し」として出願は却下された。

 一方、28年4月19日には、「河野水電」が敷設願を提出。敦賀電気軌道の終着駅の気比神宮前からさらに北側に100メートル延伸し、当時遊郭のあった地区を終点にする計画だった。河野水電の敷設願も、敦賀電気軌道の3日前の9月28日に却下されていた。

 相次いで敷設願が出された背景には、昭和初期の敦賀のにぎわいがあったという。岡本代表によると、当時、敦賀港には旧ソ連・ウラジオストク港とを結ぶ航路が開設されており、乗船客らでにぎわっていた。さらに、神社仏閣への参拝が当時の主なレジャーで、格式の高い気比神宮に多くの参拝客が訪れ、駅と神宮間を大勢が行き交っていたとみられる。

 敦賀電気軌道の発起人の1人として名前があった田保仁左衛門の親戚にあたる、敦賀駅前商店街振興組合理事の田保英二さん(61)は「当時は敦賀の全盛時代。こんな計画があったとは知らなかった。路面電車が実現していれば、今の街とは違う形で発展していたかもしれない。ロマンがかき立てられます」と思いをはせていた。

(2013年10月17日 読売新聞)


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