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都市計画道路・高速鉄道スレッド
2041
:
チバQ
:2012/05/06(日) 20:34:13
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20120322ddlk40010338000c.html
北九州市50年ものがたり:第2部・交通と街/4 車社会移行で、利用客減少 /福岡
毎日新聞 2012年03月22日 地方版
◇路面電車、姿を消す
ガタンゴトンと市街地をゆっくり走る路面電車。「時間が正確で使いやすかった。路線が分かりやすいので安心して乗れた」。新日鉄八幡製鉄所への通勤で使った小倉南区春ケ丘、加地一雄さん(70)は振り返る。
1911(明治44)年、西日本鉄道(西鉄)の前身、九州電気軌道が門司−黒崎間で運行開始。北方、戸畑、枝光線も昭和の初めまでに整備され、旧5市のうち若松を除く4市に旅客用の路面電車があった。
小倉南区出身で西鉄鉄道事業本部運輸車両部の林孝一さん(51)は83年から北九州市内で路面電車の車掌、運転士を1年ずつ経験した。黒崎駅前−折尾間や戸畑、枝光線の一部は専用軌道だったが大半は車との併用道路。「路面電車は制動距離が長く、ブレーキを早めにかける必要があったが、急に右折車が交差点に入ってきて危ういこともありました」
通勤通学客で混み合う朝夕は2両編成の連接車も走った。「高校生が目立った戸畑線では窓から入る生徒もいた」という。林さんは「春先の枝光線が好きだった。沿線にきれいな花が見え、牧山を登ると洞海湾と工業地帯が見渡せた。また門司港では電車と街並みがマッチしていたように感じた」と懐かしむ。
「車掌として切符を売ったり駅の案内をしたり。ある時は銀行員のお客さんから自宅に誘われ、ごちそうしてもらった。運転士の時は、若い女性からお付き合いしたいと手紙がきたことも」。客と乗務員の距離がこんなに近い乗り物も珍しい。
やがてモータリゼーションの進展で「路面電車は交通の妨げ」との声が出始めた。この間バス路線が増えたこともあり路面電車の利用客は減少。80年は新市誕生の63年に比べ半数以下に落ち込んだ。
80年11月、魚町−北方間の廃止を皮切りに順次消えていった路面電車。92年10月24日、砂津−黒崎駅間のさよなら電車が走った。最後まで残った黒崎駅前−折尾間も00年11月25日で終止符を打ち、北九州市内の路面電車は89年の歴史を閉じた。
最大の理由は赤字。路線の廃止情報が新聞に載ると沿線の商店街や学校、労組などが存続運動に乗り出し、市議会請願などを展開した。ただ市は西鉄の正式発表まで「何の対策もたてていなかった」と84年4月25日の毎日新聞朝刊は伝えている。行政や経済界でつくる北九州都市圏交通対策協議会が、路面電車の廃止やモノレールの建設を提言したことが背景とみられる。
21世紀になり、路面電車は環境を重視する欧州で脚光を浴び、九州でも長崎や熊本、鹿児島で生き続けている。「環境未来都市にふさわしい市民の足だっただろう。大切な財産を失ってしまった」。数々の路面電車の写真を前に、加地さんは今つくづく感じている。
〔北九州版〕
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