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選挙・議員関連情報スレ
4009
:
名無しさん
:2016/05/05(木) 18:51:47
>>4008
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050400262&g=pol
「首相の言葉は重い」=語り続けた佐藤元通産相
「首相の地位、言葉は重い」。死去した自民党の佐藤信二元通産相が晩年、しばしば口にした言葉だ。佐藤氏がこう思うに至ったのは、二つのエピソードがきっかけだ。
一つは、父の佐藤栄作元首相から聞かされた話。首相になった栄作氏が「政治の師」である吉田茂元首相を神奈川県大磯の私邸に訪ねると、吉田氏は部屋に招き入れるなり、黙って下座についた。栄作氏が座るのをちゅうちょしていると、吉田氏はこう言って上座につかせ、首相の職の重さを教えた。「佐藤君にではなく、日本国の首相に敬意を表しているのです」
もう一つは、若手議員時代のこと。原稿を棒読みすることが多かった当時の鈴木善幸首相に「なぜ自分の言葉でしゃべらないのですか」と尋ねてみた。すると、鈴木首相は秘書官の用意した原稿に自身で筆を入れたものを「棒読み」していることを明かした上で、「首相の言葉は重く、永遠に残る。だから一字、一句を大切に話している」と説明したという。
親戚である安倍晋三氏が2006年に初めて内閣を発足させると、「お友達内閣」とやゆされ、首相と閣僚が友達同士のように接する場面が目立った。しかし、佐藤氏は安倍首相に敬意を表し、苦言を呈することはなかった。時がたち、退陣を経て12年末に政権に返り咲いた安倍首相は「安倍1強」と言われるまでの強力な権力基盤を確立。自信の裏返しか、答弁席から野党議員にやじを飛ばして挑発し、物議を醸すこともある。安倍首相が再登板を果たしたとき、佐藤氏は既に病床にあり、その後の姿を見てはいないだろう。
「構うことはない」が佐藤氏の口癖で、攻めの政治家だった。その象徴が、橋本龍太郎首相(当時)の退陣表明を受けた1998年の自民党総裁選。栄作氏が率いた佐藤派の系譜に連なる小渕派が立てた小渕恵三氏ではなく、うまがあった梶山静六氏を敗北覚悟で支援した。電力業界の激しい反対にあって挫折したものの、電力改革に最初に本気で取り組んだのは通産相時代の佐藤氏だ。4月からの電力自由化を見届けると、長い闘病生活を終え、旅立った。(時事通信解説委員・高橋正光)。(2016/05/04-16:17)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160504/k10010508361000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_013
佐藤信二元通産相が死去
5月4日 4時13分
自民党の元衆議院議員で、通産大臣や運輸大臣を務めた佐藤信二氏が、4日までに亡くなりました。84歳でした。
佐藤氏は佐藤栄作元総理大臣の次男で、大学卒業後、会社員を経て、昭和49年に参議院選挙の旧全国区に立候補して当選しました。その後、昭和54年の衆議院選挙に旧山口2区から立候補して当選し、通算で8回当選しました。
この間、昭和63年には竹下改造内閣の運輸大臣として初入閣し、第2次橋本内閣では通産大臣を務めました。
その後、平成17年7月の衆議院本会議で、当時の小泉総理大臣が「改革の本丸」と位置づけた郵政民営化関連法の採決が行われた際、欠席し、この年の9月に行われた衆議院選挙には立候補せず、政界を引退していました。
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