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選挙・議員関連情報スレ
3951
:
名無しさん
:2015/09/24(木) 21:39:22
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150924-00000537-san-pol
塩川正十郎氏合同葬 小泉元首相が語った塩爺との思い出「国会史に残る『忘れました』の珍答弁」
産経新聞 9月24日(木)17時27分配信
24日営まれた故塩川正十郎氏の自民党・塩川家合同葬で、「友人代表」小泉純一郎元首相の弔辞の全文は以下の通り。
謹んで故塩川正十郎先生の御霊(みたま)に弔辞をささげます。
私が塩川先生と初めて出会ったのは、福田赳夫先生のお宅で玄関番のようなことをさせていただきなら政治修業をしていた頃でありました。当時の福田邸は、「角福戦争」華やかなりし頃で朝7時頃から来客が多く、なかでも塩川先生はさっそうと格好よく声が大きく、低音の大阪弁が印象的な若手代議士でした。
私は落選中でしたが、慶応大学の後輩という付き合いやすさがあったのでしょう。よく声をかけてきてくれ、私が次の選挙で当選できるようにさまざまなご助言をいただきました。
私が初当選を果たしてから何かと面倒をみてくださり、常に温かな、そして的確な忠告をいただき、敬愛すべき先輩としてご指導を賜りました。それは生涯変わることはありませんでした。
現在の安倍晋三総理大臣のお父上、晋太郎先生が亡くなられた後の派閥会長をだれにするかで揉(も)めたとき、三塚(博)先生から「純ちゃん、あんた塩さんと親しいだろ。なんとか三塚を応援するよう頼みに行ってくれないか」と言われました。
ある朝早く東京・九段議員宿舎の塩川先生の部屋をたずね、派閥事情を説明しながら三塚支援をお願いしたところ、塩川先生は私に対し「君も政策問題でなく、権力争いに首を突っ込むようになったのか」と苦笑していた姿は今もなつかしく思い出として私の心に残っています。
私が自民党総裁選挙に立候補する際には「推薦人の数が足りなかったら、いつでも推薦人になる」と激励してくれました。塩川先生が私に期待を寄せてくれていたことは、私の政治活動にも大いなる励みになりました。
小泉内閣最初の組閣で塩川先生には財務大臣を引き受けていただきました。多くを語らなくても常に私の真意を直感的に正確に分かってくれる塩川先生の存在が、その後の私の政治運営に大きな力になったことは多くの人が認めるところであります。
やあ、塩川先生は小泉内閣の重しであり、小泉の精神安定剤と言われたのも、むべなるかなの感があります。
あるとき、(国会で)野党質問者が塩川財務大臣の官房長官時代にこういうことがあったと発言していた新聞記事をもとに「問題発言だ」と追及してきました。私はそのとき内心「まずいことになったな。これは大きく問題になるのではないか」と心配していました。
しかし答弁に立った塩川財務大臣はあっけらかんと「忘れました」と一言。一瞬、与野党議員ともにあっけにとられ、それが爆笑に変わり、なんとなく終わってしまいました。
これも文部大臣、運輸大臣、官房長官の豊富な閣僚経験を経てきた貫禄と、だれからも親しまれていた塩川先生の人柄、人徳の賜(たまもの)だと思いました。この答弁は名(迷?)答弁というか珍答弁というか、国会答弁史に残るのではないかと思っています。
「塩爺」と呼ばれ、「癒し系大臣」と親しまれた塩川先生のありし日をしのび、心よりご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉と致します。塩川先生、長い間、ありがとうございました。さよなら。
平成27年9月24日、小泉純一郎。
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