したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

選挙・議員関連情報スレ

3875名無しさん:2013/12/05(木) 14:24:51
選挙戦の開始
 野草家は一族からふたりの大庄村長を出しており、かならずしも政治と無縁ではありませんでしたが、村議であった野草氏の父平左衛門氏が村長選応援の違反で検挙されたことがあり、野草氏は祖父から選挙に関わらぬよう戒められていたと言います(野草平十郎『一滴の油』−平成4年−より)。それで、篠田市長の後継として推されても乗り気でなく、「選挙には絶対に出ない」と言っていたのが、海江田氏出馬への反発から立候補を決意した……野草氏を応援したある元保守系市議からは、そんな証言を得ています。
 こうして市長選挙に向けた、尼崎を二分する激しい戦いが始まりました。政党では、自民・公明・民社・新自由クラブ・社民連と5党が海江田候補を応援。ただし地元の保守政界は一枚岩ではなく、池田徳誠氏をはじめ、野草陣営につく者も少なくありませんでした。
 とはいえ、当初海江田陣営の勢いは圧倒的でした。現職知事の全面的なバックアップのもと、地元政界も巻き込んで、中央や県との強いパイプを持つ市政の実現を訴えます。また鹿児島県出身であることも、海江田候補の強みのひとつでした。鹿児島県人が多く、一説には5人に1人がそうだと言われる尼崎市において、県人会票は選挙の結果を左右すると言われていました。事実、海江田候補の推せん団体には、尼崎鹿児島県人会や、関西九州人会が名をつらねていました。

革新陣営の動向
 野草陣営がこれに対抗するには、社会・共産の革新政党が一体となって、野草候補を応援することが必要でした。篠田市政与党であった社会党は、もともと後継者としての野草担ぎ出しの張本人でしたが、さきの『尼崎の春秋』は、元来保守的な人材と目される野草氏を推すことについて、社会党やその強力な支援団体である総評尼崎地方評議会の内部では難色を示す声も根強かったと、振り返っています。
 昭和52年秋から折衝〔せっしょう〕が続けられた結果、翌53年4月1日、篠田市長を立会人に、社会党尼崎総支部・総評尼崎地評と野草氏の間に協定書が調印されます。実はそこには基本スローガンとして「自民党政府と独占(資本)に対決し、その被害者であるすべての階級階層の権利を擁護拡充する民主革新市政」という、本来野草陣営には承認できるはずもない文言が盛り込まれていました。それを押し通して共闘を実現するには、参謀役池田徳誠氏の相当な腹芸があったようです。
 共産党との共闘は、さらに難航します。その最大のネックとなったのは、同和行政をめぐる社共の政策の不一致でした。いわゆる「窓口一本化」に反対し、同和行政の転換を迫る共産党と、社会党・野草陣営との間の溝には、深いものがありました。のみならず、坂井知事が尼崎市政転換を熱望した大きな理由もまた、同じところにあったと池田徳誠氏の『尼崎の春秋』は述べています。この時期坂井県政は同和行政の見直しをすすめており、その点で尼崎革新市政とは方向性の相違があるため、海江田氏を市長に送り込んで転換を強力に推し進めようとする意図があったと言うのです。
 最後の転機となったのは、市長選直前の10月29日に行なわれた県知事選挙でした。社会・共産がそれぞれ独自候補を立てたこの選挙において、社共候補の尼崎市における得票は、合計しても坂井知事の得票をわずかに下回るものだったのです。市長選の前哨戦〔ぜんしょうせん〕とも言えるこの選挙結果から、両党の共闘なくして野草当選はきわめてむずかしいことが強く印象付けられ、告示直前、ようやく共産党との協定が成立します。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板