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選挙・議員関連情報スレ

3854名無しさん:2013/07/25(木) 18:04:25
西尾邑次元知事死去:温厚堅実、愛され 県政界中心に惜しむ声 /鳥取
毎日新聞 2013年07月25日 地方版

 1999年まで4期16年にわたって、県政のかじ取り役を務めた西尾邑次(ゆうじ)元知事(92)が23日夜、肺炎のため死去した。5月下旬に脳梗塞(こうそく)で倒れ、まひが残った右手足などのリハビリ生活を送っていた。県政界を中心に惜しむ声が相次いだ。【加藤結花、川瀬慎一朗】

 旧東長田村(現南部町)出身の西尾さんは1947年、県職員に採用された。企画部長や総務部長、副知事を歴任し、83年の知事選で初当選。長く県政を引っ張った。

 在任中の85年には「わかとり国体」を開催。97年に境港市で開催した「山陰・夢みなと博覧会」では、180万人以上の来場者を集めた。「ジゲおこし」と称した県民による地域活性化運動を提唱したほか、94年に鳥取、韓国、中国、ロシアの4地域の自治体が参加したサミットを開催するなど環日本海交流の推進にも尽力した。

 西尾さんの訃報を受け、平井伸治知事は「巨星を失った深い悲しみを覚えます。わかとり国体、山陰・夢みなと博覧会、中山間地対策などをはじめ、鳥取県に輝きをもたらそうと一生をささげられたことに心より感謝申しあげます」との談話を発表した。

 97、98年度の2年間、秘書課長としてほぼ毎日、顔を合わせて仕事をしていた鳥取大の法橋誠副学長(59)は「本当に残念で言葉もない」と惜しんだ。「徳のある方で、人付き合いを大切にしており、県職員からの人望も厚かった」と西尾さんを回顧。一方で「普段は温厚だったが、県民の利益ではなく、立場で物を言うような人間や発言に対しては厳しい面も見せた」と回想した。

 ◇悲願の国体実現

 「県民の悲願だった国体の実施に向けて、県と県議会が力を合わせて進めた。当時、非常に盛り上がったのを覚えている」

 1985年に県内で開かれた「わかとり国体」を、山口享県議は懐かしそうに振り返った。「国体は大きな費用がかかる一大事業だったが、体育施設の整備は将来の投資にもなると議会も了承した。実際、布勢の競技場など、多くの施設が今も県内のスポーツ環境の整備に一役買っている」と評価。「西尾さんは派手ではなかったが、温厚堅実な人柄で多くの人に愛された。そういう穏やかな人柄もあり、国体や山陰・夢みなと博覧会など大きな事業を成し遂げることができたのだと思う」と語った。

 元県職員で国体事務局長を務めた山住省二さん(86)=鳥取市用瀬町=は、突然の訃報に「非常に温厚で優しく、親しみの持てる人だった。惜しい人を亡くした」と肩を落とした。

 「おまえにまかせるけ」。山住さんは西尾さんから直接、事務局長の重責を託された。「とにかく知事就任後、初めての大仕事で、何が何でも成功させようと一生懸命だった」と当時を振り返る。鳥取は雨が多いため、西尾さんは天気を心配していたが、奇跡的に秋季大会期間中一度も雨は降らなかった。

 大会前は県選手団の合宿所などに西尾さんが直接出向き、「頼んだぞ」などと熱心に激励。人口最少県だけに優勝できるか危ぶまれたが、県選手団は見事に優勝した。現在のJR鳥取駅から県庁まで若桜街道を選手らとともにオープンカーでパレードし、「(西尾)知事は涙を流して喜んでいました」。閉会式では、県出身の作曲家、岡野貞一の「ふるさと」を県外にも知ってもらおうと、西尾さんの提案で選手の退場時の行進曲として子どもたちが合唱した。

 開会式では、婦人会のメンバーが傘踊りを披露。今でも当時の出演者の一部が毎夏、「鳥取しゃんしゃん祭」に参加しており、西尾さんも毎年激励に来ていたという。同祭は来年で50年。「50周年までは続けて応援したい」と話していた矢先での急死だった。


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