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選挙・議員関連情報スレ

3846名無しさん:2013/07/06(土) 14:31:27
http://www.hibinoshinbun.com/files/68/kousaka.html
日々の新聞 第68号 江戸時代のいわき

安藤家家臣の子孫で、元衆議院議員の上坂昇さん(87)が、司馬遼太郎の『この国のかたち』を読んでいた時だった。近江の「上坂氏」のことにふれているところがあった。それまで「東北に住んでいるから蝦夷の子孫」と、自分のことを思っていた。何となく上坂姓のルーツを調べたくなり、以後、滋賀県を何度か訪ねた。

 滋賀県長浜市。上坂神社、上坂城跡、それに東上坂町、西上坂町というのもあった。関西の上坂姓はかみさか、うえさかが多い。近江の上坂はこうさかが正しい読み方なのだという。
 上坂さんの本籍は平揚土五、平一小がある場所。先祖は安藤家の家臣で、安藤家6代の信成の入封とともに磐城平に移り住んだ。曾祖父にあたる助太夫は安藤家12代の信勇の時代、城代を命じられ、藩主の留守中、代わって城を守り、藩の一切の政務を担当した。そして、戊辰戦争を迎えた。
 10代藩主の信正は老中職を辞めた後、老中在任中に不正があったという理由で隠居謹慎を申し渡され、11代の信民に家督を譲ったが、さらに領地二万石を取り上げられ、無期限の謹慎を言い渡された。謹慎が解ける間に信民は亡くなり、内藤家から養子に来た信勇が藩主に就いた。
 戊辰戦争の藩の態度を決める議論がされたころ、恭順派の儒学者真木光と抗戦派の家老上坂助太夫の2派にわかれた。その時、信勇は美濃加納の領地にいた。助太夫は藩主の意志に反し、信正を担いで旗揚げをし、総監を務めた。そして激しい攻撃を受けて落城した。
 敗れた安藤家は陸中磐井藩への移封を命じられたが、信勇が忠誠を誓って嘆願し、移封は取り消され、そのまま磐城平藩で生活した。廃藩置県で平県知事になったが、その後、福島県が誕生し、学習院で書道教授をした。 
 上坂さんは小川町で生まれ。父親は次男で、運送業を営んでいた。戊辰戦争後、先祖は傘張りなどをしながら苦しい生活をしたという。いま、上坂さんは安藤家の縁の人たちの集まり「平安会」の会長をしている。


平安会
 
  家臣など安藤家の縁の人たちの集まり「平安会」は110年前に発足した。戊辰戦争で亡くなった西軍の兵士はすぐに弔うことができたが、負け組は弔うことさえ許されなかった。そのうちに、仙台などあちこちから亡骸を良善寺に集め、供養している。にらまれることは避け、目立つことはしないできたという。
 安藤家の最後の将軍、信勇の子どもか孫にあたる、信篤は磐城中学(現磐城高校)で学んだ。かなり優秀で、将来が期待された。「学費を支援してほしい」という呼びかけで、協力したこともある。信篤は八高(名古屋高校)に入学したが、八高時代に結核で亡くなってしまった。


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