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選挙・議員関連情報スレ

3659チバQ:2012/08/06(月) 17:52:48
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000001208060001
貧乏からの脱出 軸に 浜田幸一氏死去 
2012年08月06日

 「ハマコー」の愛称で知られた元自民党衆院議員の浜田幸一氏が5日、亡くなった。83歳だった。「貧乏からの脱出」を訴えて旧衆院千葉3区で7回の当選を重ね、東京湾アクアライン建設に尽力するなど湾岸開発に深く関わった。賭博疑惑で議員辞職に追い込まれ、背任容疑で逮捕されるなど波乱の人生だった。


 昨年出版した自伝的著作「YUIGON」(ポプラ社)によると、1928年に青堀町(現・富津市)で生まれた浜田氏は、旧制木更津中4年生で敗戦を迎えると、ひどい虚無感から見境を失ったという。ヤクザに出入りし、24歳の時に傷害事件で服役、「木更津のダニ」と新聞に報じられたと自ら明かしている。


 「私は政治家になってから『ヤクザ上がり』と言われ、随分悔しい思いもしましたが、事実だから仕方ありません」と記している。


 55年に富津町議に当選。政治家になった契機は、著書によると、「ヤクザ」の親分という人物から「お前は意気地がないからヤクザは務まらない。カタギになれ。政治家を目指せ」と諭されたことだったという。


 県議を経て、衆院議員に初当選したのは佐藤栄作内閣だった69年。同期には小沢一郎、土井たか子、羽田孜、森喜朗、不破哲三、渡部恒三らの諸氏がいた。


 子どもの時に抱いた「なんで、俺の町はこんなに貧しいんだろう」という疑問が政治家としての原点だったといい、「貧乏からの脱出」が訴えの軸になった。


 高度経済成長の時期で、東京湾岸では埋め立てが急速に進んでいた。埋め立てに使われた内房一帯の山砂の採取量は、73年には全国の7割を占めた。


 そうした政治活動の象徴が東京湾アクアラインの実現だった。「房総半島の下半分に住む人たち皆を豊かにすることにつながると思いました。私の生まれた半島を貧しさから脱却させようと思ったのです」


 内房地区に100万都市を作るのが夢と語り、東京湾と九十九里を結ぶ「超運河構想」まで提唱した。


 ラスベガスでの賭博が問題になり議員辞職。その後予算委員長のポストも共産党を攻撃する発言で失った。厳しい指弾を浴びたが選挙は強かった。富津市のある漁師は「我々の言葉を一番身近に感じてくれる政治家だった」と振り返る。「金にまつわる話もあったが、この辺にポンと出してくれる人がいるわけでなく、自分で稼がなければいけなかったのでは」とも。


 93年に政界引退。「どんなことをしても『普通の人間』に自分を変えることはできなかった。ハマコーはハマコーだったのです」


 千葉の開発史を研究する竹内壮一千葉商大教授は「高度経済成長の流れに乗って地域に利益を、ということを旗印に、漁民をまとめたのは飛び抜けた指導力があったからといえる。だが、環境を考慮しないで巨大開発をした影響は大きかった。果たしてそれがよかったのか。評価はまだできないが、少なくとも活気を失った今の木更津市街地をみる限り、成功したということはできないだろう」と語った。


◇地元関係者の反応


 野田佳彦首相は浜田氏死去について訪問先の広島県福山市で「同郷の大先輩の政治家であり、たいへん驚いている。心からお悔やみ申し上げたい」と語った。


 浜田氏の自宅に18歳の時から住み込み、秘書を務めた石井準一・参院議員は「浜田先生からは『いいことはいくら教えても身につかないが、悪いことは教えなくても身につく。俺のまねしてばくちなんかするな』と言われた。めったに人をほめる人ではなかったが、自分が参院議員に当選したときは『本当によくやった』と喜んでくれた」。


 水越勇雄・木更津市長は「アクアライン建設に尽力するなど、地元の声を国政に反映した。それが千葉県の高いポテンシャルにつながっている」とコメント。


 元袖ケ浦市長の小泉義弥さんは「袖ケ浦の海を埋め立て、工業地帯にする際に、漁業補償を求める地元漁協のために力を尽くしてくれた」と話した。
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