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選挙・議員関連情報スレ
3611
:
名無しさん
:2012/03/31(土) 22:56:43
■共産党から「転向」
小林氏は東大文学部国史科在学時代、東大の先輩、渡辺恒雄氏らとともに日本共産党東大細胞のメンバーとして活動したが、後に渡辺、小林両氏はいずれも「転向」した。
東大卒業後は参院事務局に勤めたが、読売新聞政治部記者だった「同士」の渡辺氏が中曽根氏と親交が深かった縁で昭和35年に中曽根事務所に秘書として入った。
小林氏が「中曽根氏の側近、ブレーン」として永田町で知る人ぞ知る存在になるまでには時間はそうかからなかった。
約10年間、事務所長として中曽根氏の地元、群馬県高崎市と東京を行ったり来たりした。同事務所を離れた後も、防衛庁防衛研修所(現防衛研究所)の所員として安全保障政策について研究を重ね、ときに中曽根氏に助言した。
中曽根氏の長男、弘文氏(現自民党参院議員会長)が昭和61年、衆院選と同時に行われた参院選で群馬県選挙区から出馬し初当選を果たした際には、康宏氏に請われて地元に入って選挙戦を仕切った。
また、63年の中曽根氏をヘッドとする「世界平和研究所」の立ち上げに携わり、同研究所で「中曽根内閣史」(全5巻)の編纂にも尽力した。
小林氏を知る永田町関係者はこう振り返る。
「個人的に米政府要人を二つ返事で紹介してもらったこともある。人柄は穏やかで、現役時代の中曽根氏とは似てもに似つかなかったな。首相の座まで駆け上り、戦後の名宰相の1人に挙げられるほどになった大勲位、中曽根氏の政治基盤を築くのに、小林氏が大きな力になったことは間違いない」
■「積極的な『孤独死』」
与謝野氏は昭和43年、中曽根事務所に秘書として入り、小林氏と3年間一緒に仕事した。
「中曽根先生が作った20〜40代の人たちとの勉強会『ファイアーサイドの会』で、渡辺恒雄さんと克己さんに出会った。ちょうど50年前の夏のことだ。その後、2人に『政治の道を進め』と勧められ、中曽根先生のもとで雑巾がけをやらせてもらった。私がこの世界に入るきっかけを克己さんにつくってもらった」
中曽根氏の側近では首相秘書官を務めた故上和田義彦氏が知られるが、与謝野氏は「克己さんは非常にインテリのブレーンで、上和田さんとは役割もタイプも違っていた」という。
「克己さんが人を怒鳴ったところは一度も見たことがない。とても物静かな人で、人に対する観察眼がすごかった。最後に会ったのは一昨年暮れに一緒に食事したときだった。克己さんは静かにこの世を去っていく道を選んだ。積極的な『孤独死』だ」。与謝野氏はこう語る。
■「如何にも彼らしい」
4月19日、有志の人々が、静かに去っていた小林氏をしのぶ会を都内のホテルで開くことになった。
会の指揮をとる中曽根康弘氏は2月、小林氏ゆかりの人たちにあてた案内状で小林氏を「永年の執友(しつゆう)」と位置付け、こう綴った。
「去る1月4日、小林克己君が永眠しました。数日後、故人自ら認めた、率直で完結な死亡通知が届き、奇妙な驚きと共に、如何にも彼らしいと感じた次第です。彼は昭和35年より10年間、私の秘書を務め、またその後も様々な局面で、支えてくれました」
小林氏がこだわったであろう人生の終幕のスタイルは、人が必ず迎える「死」の在り方のひとつとして考えさせられるのではないだろうか。(政治部編集委員)
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