[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
選挙・議員関連情報スレ
2467
:
とはずがたり
:2006/12/20(水) 16:10:58
都知事選や参院選の有力な候補者が一人逝った?
青島氏死去 TV・政治 才能多彩に
2006年12月20日15時36分
http://www.asahi.com/national/update/1220/TKY200612200282.html
放送作家、タレント、作詞家、俳優、司会者、直木賞作家……。青島幸男さんはその才覚を、まず草創期のテレビ界で開花させ、活動の場を政治へと広げていった。
早稲田大の卒業間際に結核にかかり、就職を断念。療養中に漫才台本を書き始め、NHKのコンクールで採用されたのを機に放送作家として活動を始めた。「おとなの漫画」(フジテレビ)や「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などで構成やコントシナリオを手がけた。テレビに、時代を軽やかにおちょくる感覚をもたらした。
作詞家としても才能を発揮し、60年代にハナ肇とクレージーキャッツが演奏した「ドント節」「スーダラ節」「ハイそれまでよ」、坂本九が歌った「明日があるさ」など、ヒット曲を数多く生み出した。「ドント節」の歌詞では、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」とうたい、「無責任時代」が社会現象化。高度経済成長時代にあくせく働くサラリーマンの猪突猛進(ちょとつもうしん)ぶりを、斜に構えて、笑いに変えてみせた。
中山千夏、八代英太両氏と出演した「お昼のワイドショー」(日本テレビ)では司会者に。また、67年からドラマ「意地悪ばあさん」(日本テレビ、フジテレビ)で、主役のコミカルなおばあさんを女装で演じ、人気を博した。66年には映画「鐘」で主演・制作・脚本・監督を担当し、カンヌ映画祭の国際批評家週間に入選した。
権威や多数派にこびず、独自のスタイルを貫き通す姿勢は政治にも表れた。68年に参院全国区で初当選すると、「『意地悪ばあさん』的精神で参議院の姿勢を正す」と宣言。その後は選挙運動への出費を抑えるため、公報や政見放送で主張を伝えるだけ。選挙期間中は自宅などにこもった。
一方で発言は過激で、時の総理が財界から多額の献金を受けていることをとらえて「男めかけ」と言ってみたり、防衛費の拡大に歯止めをかけられない閣僚に向かって「全員腰抜けだ。アホですよ」と言い放ってみたり。
95年の東京都知事選は、最有力だった各党相乗りの官僚出身候補を相手に、「国民をカヤの外に置き、政治は既存政党が行うものだという傲慢(ごうまん)な考えを捨てない限り政治不信は増大する」と舌鋒(ぜっぽう)をゆるめず、ほとんど選挙運動らしいことをしなかった。政見放送やポスターで政策を訴え大量得票した。就任早々、臨海部での博覧会中止という公約を実現し、「損得ではない。青島は約束を守れる男か、守れない男か、信義の問題だ」と語り、都民を喝采させた。
でも、威勢がよかったのはそこまで。巨大な官僚組織、オール野党の議会、山積する課題を前に、青島色はかすんだ。「官僚の言いなり」「公約違反の無責任男」と厳しい批判を浴び、一時は意欲を見せていた2期目への立候補を断念した。
青島幸男さん死去 元東京都知事・意地悪ばあさん
http://www.asahi.com/national/update/1220/TKY200612200258.html
2006年12月20日13時23分
直木賞作家で、東京都知事や参院議員を務めた青島幸男(あおしま・ゆきお)さんが20日午前9時半、江東区内の病院で死去した。死因は血液がんの一種である骨髄異形成症候群。74歳だった。
1932年、東京・日本橋の仕出し弁当屋の次男に生まれた。早大大学院在学中に漫才の台本を書き始め、20歳代で放送作家としてデビュー。「シャボン玉ホリデー」を手がけるなど草創期のテレビ界で活躍した。テレビドラマ「意地悪ばあさん」では主演を務め、お茶の間の人気を集めた。大ヒットした「スーダラ節」の作詞を手がけ、初めての小説「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」では直木賞を受賞するなど、文化人として多彩な才能を発揮した。
政界でも活躍した。35歳だった68年、参院の全国区に初めて立候補し、120万票を集めて初当選するなどタレント議員のパイオニア。故市川房枝参院議員の遺志をついで「二院クラブ」の代表を務め、「選挙に金をかけるから後で回収しようとして政治腐敗が起きる」との考えから、以後は街頭演説など選挙運動らしいことをしないスタイルを確立した。
参院5期目の95年には東京都知事選に立候補。自民、社会、公明など主要政党が相乗りした官僚出身候補に約50万票差をつけて圧勝した。
都知事就任後、公約通り世界都市博覧会は中止したが、その後は都官僚と協調路線を取ることも多くなり、選挙時に支持した市民団体からは「ミスター公約違反」と批判を浴び、1期4年で知事を退いた。
01、04年の参院選にも立候補したが落選し、04年に政界からの引退を表明した。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板