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選挙・議員関連情報スレ
1111
:
とはずがたり
:2003/09/28(日) 23:37
村山引退は結構無理矢理やってんなあ。まあ釘宮に強引に社民公認ぶつけた社民の自業自得感ありなのだけれども。
社民系の吉良氏への拒絶感が強いのは残念だなあ。。
http://mytown.asahi.com/oita/news02.asp?c=5&kiji=1659
選択 衆院選/連立10年おおいた(下)
3者協力「県都決戦」非自民制す
大分市の事務所は、割れんばかりの歓声に包まれた。
00年6月25日夜。衆院選大分1区で当選を決めた釘宮磐氏(現大分市長)は、駆けつけた民主、社民双方の支持者にもみくちゃにされた。
1区は、自民公認、公明など推薦の衛藤晟一氏と、連合を軸にした民主公認、社民推薦の釘宮氏が激しくぶつかり合った。事実上一騎打ちの「県都決戦」だった。
「これまでで一番忘れられない選挙。達成感でいっぱいだった。政党の違いを超えた一体感にあふれていた」。釘宮氏は、こう振り返る。
■ □
釘宮氏が1区への立候補を表明したのは99年9月。現職の村山富市元首相が引退表明をしていない中での決断だった。
「秋から冬に選挙があるとの見通しもあり、ぎりぎりの判断だった。村山さんが出るのなら私は比例区に回ることを中央に投げかけてもいた。98年の二の舞になりたくない思いがあったから」
98年7月の参院選。民主公認の現職だった釘宮氏は非自民勢力の結集を期待したが、社民は公認候補を擁立。非自民支持層の票は割れて釘宮氏と社民候補は共倒れに終わり、自民に「恩恵」をもたらす結果となった。
「村山さんを自ら引退させるのが一番の苦労だった」。連合大分の当時の幹部は打ち明ける。
村山氏が00年3月上旬に引退を表明するまでに様々な布石が打たれた。村山氏の出身母体、自治労県本部は2月上旬、2区で重野安正氏の擁立を決定。村山氏の引退を前提に重野氏に総力を挙げる態勢づくりに入った。村山氏自身は「96年の総選挙に出ることになった際、周囲には『これが最後』と言っていた」と振り返るが、民主党県連や自治労県本部に「外堀」を埋められた形での引退表明になった。
ただ、3者協力の実現後も様々な形のしこりは残った。多くの関係者が「村山さんに、磐さんの応援をしてもらうのが一苦労だった」と口をそろえる。
村山政権時代、釘宮氏は野党の参院議員で、政権批判の先頭に立っていたという。釘宮氏が県庁前で街頭演説をした際、応援に訪れた村山氏は「釘宮」の「く」の字も言わず、社民党と重野氏の応援だけして帰ろうとした。関係者があわてて村山氏を引き留め、釘宮氏と握手させる一幕もあった。
また、社民を支持する旧総評系労組も、もともと自民出身の釘宮氏に戸惑いを見せた。「あいさつしてもよそよそしさがあった。でも『大分から政権交代を起こそう』と訴えるうち、私の思いを正面から受け止めてくれるようになった」と釘宮氏。終盤は旧総評系労組もフル回転した。
■ □
00年の総選挙で県内で初めて実現した連合、民主、社民の3者協力。だが、次期衆院選の1区では、民主が推薦した吉良州司氏について、連合大分は一度は「検討に値しない」と発言。民主系労組は前向きな姿勢を見せるが、社民系労組は厳しい態度だ。一方で、自民公認の衛藤晟一氏は返り咲きを狙い、共産新顔の元県議、堤栄三氏も浸透を図っている。
「今度も3者協力を保ってほしい」と話す釘宮氏に対し、村山氏は、政策で憲法改正を掲げる吉良氏を「たとえ党が支持しても私は支持できない」と言う。かつての1区の主役たちは、それぞれの立場から3者協力の行方を見守っている。
(この連載は、白石昌幸、大隈崇、武井三聡子が担当しました)
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