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選挙・議員関連情報スレ
1110
:
とはずがたり
:2003/09/28(日) 23:34
http://mytown.asahi.com/oita/news01.asp?c=5&kiji=1657
選択 衆院選/連立10年おおいた(中)
首相の退陣会見に臨む村山富市氏=96年1月5日、国会で
社会党首相 党衰退招き自民は復活
大分が初めて輩出した国政のトップは、47年ぶりの「社会党首相」だった。
村山富市氏。社会党は94年6月、自民党、新党さきがけと連立を組んで政権に就く。だが、「水と油」が手を結んだ結末は、社会党の衰退と自民党の復活だった。
■ □
93年の衆院選で約半数の70に議席を減らした社会党は「非自民」細川政権に参加した。だが、94年4月誕生の羽田内閣からは離脱し、2カ月後には自民、さきがけとの連立政権が誕生する。衆院議員数に応じて割り振った閣僚数は自民13、社会5、さきがけ2。村山政権の多難の船出を象徴していた。
村山氏は、95年の終戦記念日にアジア諸国への植民地支配と侵略を謝罪した。「本来、総理は多数の政党から出るべきだが、この内閣が生まれたのは、この内閣にしかできない役目があるからだと考えた。戦後50年の節目。課せられた役割は戦後処理だった」。こう村山氏は振り返る。
96年1月5日。突然の退陣表明。首相在任の561日間、自衛隊と日米安保条約を是認し、社会党の基本政策の転換に踏み切った。「変節」とも批判された。
「内閣は役目を終えていた。後に続く行財政改革といった課題は、基盤が弱い内閣には無理だった。自衛隊や安保はつらい選択だったが、間違っていたとは思わない」
退陣後も連立は維持したが、首相は自民党の橋本龍太郎氏。自民党に利用されて復権に手を貸したとの批判や、党が衰退するのを心配する声もあがった。「残念ながら政権を主体的に担えるのは自民だけだった。国民からの支持があっても細川政権が短命だったのは、寄せ集めで責任を持てる政党がなかったからだ」と村山氏は話す。
村山氏は、自民でも新進でもない「もう一つの政権政党」結成を目指した。96年1月19日、社会党は「社会民主党」に党名を変更。だが、新党構想は頓挫し、鳩山由紀夫氏らが設立した民主党にも合流できず、離党者が相次ぐ事態となった。
■ □
9月27日、衆院解散。翌日には土井たか子氏が社民党の党首に復帰した。社会党の流れをくむ候補者は社民、民主、新社会の3党に分裂したまま、初の「小選挙区比例代表並立制」の総選挙(10月20日投票)に臨むことになった。
県内は2中選挙区から4小選挙区に変わった。村山氏は解散の2日前、大分市の大半を占める1区に立候補を表明、10万を超える得票で8選を果たした。また、県北部の4区でも横光克彦氏が自民の推薦も得て議席を死守し、「社民王国」の面目を保った。
1区には、新制度ならではの「からくり」があった。自民党本部は、1区と比例区に重複立候補の衛藤晟一氏を、比例区九州ブロックの単独1位とした。つまり、自民は投票前から衛藤氏を比例区で「当選確実」とすることで、小選挙区で村山氏を「支援」し、選挙後も社民の協力を得ようとしたのだ。選挙運動が盛り上がらないまま村山氏に敗れた衛藤氏は、比例区で復活当選した。
この総選挙で、社民党は全国的にみると壊滅的とも言える大敗を喫した。党名変更時で63議席を有していた同党が擁立したのは48人、獲得議席は15だった。
98年5月30日。社民が政権を離脱し、「自社さ体制」は4年間の歴史に終止符を打った。
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